夢追い人
日本のナイチンゲール 
「瓜生岩子物語」
 初演 喜多方プラザ文化センター(2001.2.25)
 瓜生岩子
(1829−1897)
日本のナイチンゲール 瓜生岩子を紹介します
 悲運の少女時代を経て、後半生を社会運動に捧げ、ある人をして菩薩の化身とも、日本のナイチンゲールとも称讃された慈善事業家瓜生岩子は、2百余名の孤児の母であり、混乱期の社会福祉運動の先駆けとして、わが国女性初の藍綬褒章を受賞しました。   
生い立ち
 1829年に今の喜多方市内の油商、若狭屋(渡辺)利左ェ門の長女として生まれた岩子は、天保の飢饉の影濃い会津でも、裕福な商家の娘らしく不自由なく暮らしていた。
 しかし、9歳の時に父が病死、若狭屋も焼失し、岩子は母りえと母の実家である熱塩村の温泉業瓜生家に身を寄せ、瓜生姓を名乗るようになる。
 14歳のときに会津藩医であった叔父山内春瓏にあずけられ、岩子はその手伝いをしながら、礼儀作法・学問・裁縫などを教えられた。この時の生活が、後の社会事業家としての岩子を決定づけたといえる。
 17歳で佐瀬茂助を婿養子に迎えた岩子は、ー男三女にも恵まれたが、その生活も長く続かず33歳の時に夫と死別、続いて母も夫のー周忌の済まぬうち他界。岩子は重なる不幸の連続に失意のうちに弟の継いだ熱塩の瓜生家へ出戻る。
慈善事業家として
 1868年、戊辰戦争の戦乱の中傷つく兵士や子供たちを岩子は敵味方の区別なく救助し看護する。
 戦乱の後、教育も受けられずにいる会津藩士の子弟たちの為に私費を投じ幼年学校を設立し、習字・珠算などの教育を行い本格的な慈善事業を始めた。
 1871に上京した岩子は、東京深川の教育養護施設、救養会所で児童保護、貧者救済の実際や経営等を半年ほど学ぶ。
 帰郷後、貧民孤児の為に手を差し延べていた岩子は1889年に福島救育所を開設。
 その後も会津に育児会を設立。瓜生会、風嶋会などを組織し貧者救済に拍車をかけた。  また、岩子は捨てられてしまう飴の糟を用いて飴糟餅などの製造を考案し、人々に広めている。
 1893年、有力者たちの援助もあり、済生病院を若松に設け、無料で医療を行い、婦女子に教育も施した。野口英世の母も岩子の協力で産婆の資格を取得する。
  後に岩子はそれまでの業績を讃えられ、女性としては初めての藍綬褒章を受賞する。
熱塩加納村に建てられた
瓜生岩子像