週刊朝日
週間朝日 増刊号「漢方」より 2001.4.5
 市民のための東洋医学講座で講談「漢方復興物語」を発表し、大好評を得た。「講談で楽しく漢方をPRできないだろうか。どちらも日本の伝統だから……」と、知人を通じて日本医科大学東洋医学科の三浦於菟講師から相談を受けたのがきっかけだ。山ほど資料を渡され、舌をかみそうな生薬名と格闘。明治初期、漢方が排斥されるなかで復興に努めた漢方医、和田啓十郎の生涯を音楽、照明つきの立体講談で生き生きとよみがえらせた(本文92-94ページ参照)。「不遇と反骨精神はまさに講談のテーマ。私自身がギックリ膜になり、動けなくなったとき、鍼治療を受けて東洋医学の効果を実感。いまや、すっかり漢方ファンです」と神田さん。この日も「肩や胸が張り、胃腸が弱いのでなにかよい処方は?」と、三浦先生に相談だ。(東京・吉祥寺東方医院で、三浦於菟講師と)
 この講談内容は、日本医科大学東洋医学科の三浦於菟講師らと何度も話し合ってまとめたそうです。昨年夏に東京都内で開かれた「市民のための東洋医学講座」で披露、以下はその抜粋です。(編集部)

パン(扇子の音、以下同じ)。
 今日の漢方を語るときに、必ず最初に登場するのは和田啓十郎の業績です。題して「漢方復興物語、和田啓十郎伝」の一席、始まりでございます。パン。
 散切り頭をたたいてみれば文明開化の音がする。幕末の混乱の極みから産声を上げた明治維新、文明開化、富国強兵。明治政府は西洋に追いつこうと必死でございました。
 残念なことに明治政府は見事に西洋化を近代化と履き違えてしまいました。その結果、どれだけの日本文化が失われたことか。邦楽も見捨てられ、日本でクラシックといえばオペラというのが現実でございます。医療の面でも漢方は科学的でないという理由で政府は明治七年に西洋医学採用を公布し、七〇一年の大宝律令以来、綿々と受け継がれてきた医事制度を変えてしまったのです。はるか昔、中国から渡来して日本になじんだ東洋医学を排除し、ドイツ医学を範とする医事制度を確立したのです。パン。
 明治初期、中期、末期と続く漢方受難の時代に、なんといいましても漢方復興のきっかけとなりましたのは、この和田啓十郎の『医界之鉄椎(てっつい)』という一冊の本だったのです。鉄椎というのは、二千年の昔、秦の始皇帝が天下を統一いたしますと、皆が畏れて、だれも声を出すものもなくなりました。そのとき張良という人が、遠い他国から怪力の大男を探し出しまして博浪沙の荒野で始皇帝の馬車に石を投げつけさせました。そういう故事から、和田啓十郎は「正義の鉄椎」の意味で書いたのです。
 この和田啓十郎とは、どのような人物だったのでしょうか?パン。
 彼は明治五年十月十日、松代藩の和田牧治、りや夫妻の七番目として生まれました。彼がまだ七、八歳のころ、十歳年上の長女、ユキという娘が難病にかかり、腹痛を訴えるようになりました。ユキはその名のとおり色白で、生まれつき丈夫なほうではありませんでしたが、長女ということで、啓十郎にも優しくしてくれておりました。
 ユキの病気はなかなか治りません。心配した両親はそれから五年もの間、地方では名医といわれる十数人の医者に次々に診察を頼み、それぞれの医者の薬を服用させたのですが治らなかったのです。ユキの体はすっかりやつれ、やせ衰えているのに腹だけが張っているという有り様です。
 ある日のこと、ユキは意を決したように、母にこう言いました。「前に言ってた薄汚いなりの漢方の先生に診てもらえませんか」こうなったら藁(わら)にもすがる思いで頼むことにしましたが、わらじ履きで、てくてく歩いてやってくる彼を見た家族はびっくりしてしまいました。髪はぼさぼさ、服は破れ放題、おまけに無精ひげまで生やしている。
しかし、なんと彼の調合した薬を飲みだしたユキは半年で快方に向かい、一年後には全快することができたのでした。パン。
 このとき、啓十郎少年は、もし将来、医者になるなら漢方医学を勉強したいと深く心に刻み込んだのでございます。しかし、和田家は由緒正しい家ではありましたが、ユキの医療費にかなりの出費をしておりまして、余裕がございません。
啓十郎は小学校を出てすぐに奉公に出されますが、どうしても勉強がしたいと戻ってきて尋常中学に入学。明治二十四年、十九歳のときに卒業。そして子供のころの体験を思い出して、医学専門学校の済生学舎に入学いたします、日本医科大学の前身でございますね。その年に古本屋で江戸時代の漢方医、吉益東洞(よしますとうどう)の『医事或(わく)問』という本に出合うのであります。パン。
 まさしく運命の出合いというのでしょう。この本との出合いがなければ、彼は漢方にのめり込むこともなく、したがって『医界之鉄椎』を発表することもなく、今日の日本では漢方は滅んでいたかもしれない。東洞はそれぐらいすごい人なんですね。とうすごいのか、簡単に説明をさせていただきますと-----。
 太平続く江戸時代の中ごろ、吉益東洞はのんびりと惰眠をむさぼっていた多くの医者たちに、いかに早く実践的医術を修得させるかに努力した改革者、先駆者ともいわれております。その主張は「万病一毒説」と申します。諸々の病気にはどれもただ一つの毒がある。毒がどこから来るのかは問題としません。毒が体のどこにあるかが重要なんですね。毒の所在によって、あるいは胸痛となり、あるいは腹痛となり、あるいは頭痛となります。
 毒を取り除くものが薬です。当時の医師たちは危険をおそれて人参だとか甘草(かんぞう)だとか反応の温和なものばかりを用いました。東洞は毒の所在を突き止めますと、もう激烈な薬を用いて駆除したんです。盛る薬が激しく、下痢や嘔吐を起こして、なかには気絶する人もあったというんです。「薬は毒の一種だ、毒をもって毒を制す」。これが彼の治療の根本の原理だったのです。
 啓十郎は東洞の説に全面的に賛成しているわけではないのですが、東洞の革新性、カリスマ性に心酔していたことは確かなようです。『医界之鉄椎』では、冒頭に東洞の肖像画を掲げてたたえています。
 そして、吉益東洞の本に感激した彼は本格的に漢方を学ぼうと決心。たまたま近所に住んでおりました老齢の多田氏之助という漢方医のもとに内弟子として入ったのです。しかし、当時は漢方撲滅運動の最中でほとんど患者もなく、生活は火の車、貧窮の極みでございました。弟子入りしたてのころ、ご飯を炊こうと米びつを見ますと空っぽでございます。そんなある日のこと、啓十郎、静かに本を読んでおりますと、どこからともなく虫の音が聞こえてまいりました。キューグルルル、キューグルルルル。耳を澄ますと、どうやら隣の部屋の先生のところから聞こえてくる。先生の腹の虫だ。
 そうか、先生は若い自分にご飯を食べさせるために、ご自分はいつもあまり召し上がらなかったのか。なんという思いやりだ、なんという優しさだ。それと気がつかなかった自分は迂閾(うかつ)だったと、目に涙を浮がべ、すぐにとなりの部屋に飛び込むと、パン、畳に両手をつきました。
 「先生、自分はここにおいてもらえるだけでも十分です、ご飯は先生が食べてください」
 多田氏之助はしばらくじっと啓十郎の顔を見つめておりましたが、やがてにっこりと笑い、「ミミズもなあ、干して刻めば『地竜(じりゅう)』といってなあ、薬になるのじゃ。自然界には薬にならぬものはないくらいじゃ。わしものぉ、腹の虫を薬にしようと育てておるのじゃ。『腹竜』とでも名づけようかいのお」
 さぁ、啓十郎は感激いたしました。貧すれば鈍すというが、先生にはそんなところは微塵(みじん)もないではないか。志を高く持ち、医療にいそしめば貧乏していても恥じることはないのだ。多田氏之助は無名の漢方医でしたが、啓十郎はここで医者の心構えといったものを学んだのでございます。
 啓十郎は済生学舎を経て都内に開業いたしますが、うまくいきませんで、明治三十一年に郷里の女性と結
婚し、翌年には郷里に居を移し、そこで開業します。校医、村医も務め、静かな自然の中で読書三昧、勉強に励む。ここで彼の著述の基礎を培ったのでございました。まもなく長男、長女も誕生し、充実した五年間を送りまして、そののち日露戦争の軍医を経て、再び東京は日本橋浜町で開業するのでございます。
(サブタイトル)
 啓十郎は西洋医学も学んでおりますので、東西両医学のそれぞれの長所短所も熟知しておりましたが、残念なことに漢方撲滅運動の成果が浸透し、漢方に対する偏見、無視が広まっていたのです。パン。
 もうこうなったら、本を出す以外に人々に訴えることはできないと、二十年来の研究と経験の集積を世に問うべく本を書き始めます。『医界之鉄椎」という本は、理論と症例報告からなります本論と、筆の赴くままに綴った小論からなります。冒頭には漢方の研究に至った子供のころの体験、あの、みすぼらしいなりの漢方の先生が難病を治した話が紹介されております。そして意気揚々とした序文は、現代語に直しますと、このような内容となります---。
 いまや世を挙げて褒めているものは西洋医学であり、こんなに素晴らしいものはないとしている。一方で、世を挙げて誹(そし)られているものが漢方医学であり、荒唐無稽、医者たるものが口に出すのも恥ずべきものとされている。しかし、これは事実の上に照らして、どうも賛成できないところが多々ある。中略。進歩であろうが退歩であろうが、また、長か短かということも相対的に比較して是非を判断するものである。進歩を言うものは、その退歩も同時に論じ、長所を挙げるのなら短所も挙げるべきである。私は長年、医学を学び、二者の長短を比較、体験したその一部をここに報告し、識者の判断を仰ぎたい。自分は秦の始皇帝に投げつけられた鉄椎のつもりである---。パン。
 そして『医界之鉄椎」の結論では、いちがいに漢方医学を排斥して絶対無用の余り物扱いするのは、ただ医学に忠実でないばかりでなく、深遠なる学理を侮辱すると同時に、自己の根元的な存在を侮辱し、人の生命を傷つけて省みないということである、とあります。パン。

 さぁ、『医界之鉄椎」を書き上げた啓十郎。出版しようと大手の本屋に持ちかけるんですが、どこへ行っても断られてしまうんです。ただ、南江堂という本屋だけが自費出版を条件に引き受けてくれました。しかし、喜んだのもつかの間。何しろお金がないのです。親戚縁者に頭を下げてお金を借り歩きます。それが度重なるものですから、ついにはつきあいを絶たれてしまう。
 食べるものも切りつめ、着るものも買わず、もちろん床屋にもいかず、苦心惨塘(さんたん)の末、三百三十六エの本が世に出たのは明治四十三年のこと。初版部数は一千部でした。
 反響はすぐに表れます。共鳴する人、反論する人、漢方を学ぼうとする人も徐々に増え、一千部はすぐに売り切れます。大正四年に内容を増やしまして再版いたしますが、これにより患者も増えて、研究会に呼ばれるなど啓十郎の悲願でありました漢方復興運動は着実に拡大していったのです。パン。
 もう、だれも彼の発言を妨げるものはありません。そしてついに漢方排斥の立役者といわれた人たちまでが、この本を評価して啓十郎に書簡を寄せたのでございました。パン。
 こうして彼の長年の努力は報われ、漢方の未来も開けてきたかに見えましたが、月に群雲(むらくも)、花には嵐。パン。生来、貧弱な体格の啓十郎。長年の心労苦労が重なったのでしょうか。大正五年、ついに健康を害して病床に。再起不能を悟った彼は、当時十七歳の長男に漢方治療の要所を口述筆記させました。そして死去の際には、
「薬が効かなくて云々ではなく、寿命がつき云々と発表すべし」
 と言い残し、大正五年七月八日、四十五歳の若さてその生涯を閉じたのでございました。パン。
 姿は没すれども、啓十郎の漢方復興の狼煙火(のろし)は決して消えることなく燃え続け、のちの世の漢方医たちに精神と学問において甚大な影響を与え続けたのであります。そして昭和四十六年、『医界之鉄椎」復刻版が発行されたときには、また多くの学者が賛辞と畏敬の言葉を綴りました。
 今日でも漢方を志す人にとっては、再び読み返すべき必読の書、『医界之鉄椎』。漢方撲滅運動の嵐のなか、たった一人で立ち向かっていった和田啓十郎伝、これをもって読み終わりといたしますありがとうございました。