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「漢方復興物語り」本編 和田啓十郎伝

作・演出 神田香織 初演 2000年7月21日 東京 滝の川会館
資料提供 三浦於兎(日本医大東洋医学) 吉祥寺東方医院
(50分)
制作:(有)オフィスパパン
初演の記録 
 都営新宿線で「浜町」へ。隅田川を渡る風が明治座の幟旗をはためかせ、灼熱のコンクリの道路から立ち上がる反射熱をほんの少しやわらげてくれました。その明治座前の広い清洲橋通りを向こう側に渡って二本目の道は、浜町緑道という湧き水の流れる遊歩道、ここに木々の陰に佇むように黒い石碑が建っております。高さ約1m、幅1m30センチぐらいでしょうか。そこには「漢方医学復興の地」と刻まれ、裏面に次のような文章が掘ってありました。
「和田啓十郎先生は漢方医学がまさに絶滅せんとしたとき、この地において依を薄うし食を粗にして得たる資金を以て明治43年「医界之鉄椎」を自費出版し、漢方医学の復興に立ち上がった。今や漢方復興の気運に際会し、先生の旧しに碑を建て、その偉業を顕彰するものである」
 思えば、この辺りは、江戸三座のあった芝居のメッカであり、脂粉ただよい、粋な黒塀の三業地として、にぎわったところです。
 「医界之鉄椎」という固いタイトルと言い、啓十郎の漢方復興の執念といい、なにやら余りに異質なものを感じざるを得ません。彼はどんな思いで隅田川の川風を頬に受けて、芝居帰りの人々の嬌声を耳にしていたのでしょうか?今日の漢方を語る時、関係者の口をついで必ず最初に登場するのは和田啓十郎の業績です。題して「漢方復興物語り」。
(明治時代の漢方受難)
 明治初期、中期、末期と続く漢方受難の時代に、何と言っても漢方復興のきっかけとなりましたのは先程紹介した和田啓十郎の「医界之鉄椎」という1冊の本だったのです。「鉄椎」というのは二千年の昔、秦の始皇帝が天下を統一すると、皆が恐れて誰も声を出すものもなくひれ伏しました。この時、張良と言う人が遠い東国から怪力の大男を探し出し、博浪沙の荒野で始皇帝の馬車をめがけて鉄椎をなげつけさせましたところから、正義の鉄椎。
始皇帝は西洋医学、和田啓十郎はその鉄椎のつもりで書いたのです。この「医界之鉄椎」とはどういう本だったのかを語る前に、漢方撲滅運動の嵐の中単身立ち向かった和田啓十郎とは、どのような人物だったのでしょうか?
本編 テキスト

(本編 和田啓十郎伝)

 都営新宿線で「浜町」へ。隅田川を渡る風が明治座の幟旗をはためかせ、灼熱のコンクリの道路から立ち上がる反射熱をほんの少しやわらげてくれました。その明治座前の広い清洲橋通りを向こう側に渡って二本目の道は、浜町緑道という湧き水の流れる遊歩道、ここに木々の陰に佇むように黒い石碑が建っております。高さ約1m、幅1m30センチぐらいでしょうか。そこには
「漢方医学復興の地」と刻まれ、裏面に次のような文章が掘ってありました。「和田啓十郎先生は漢方医学がまさに絶滅せんとしたとき、この地において依を薄うし食を粗にして得たる資金を以て明治43年「医界之鉄椎」を自費出版し、漢方医学の復興に立ち上がった。今や漢方復興の気運に際会し、先生の旧しに碑を建て、その偉業を顕彰するものである」昭和53年10月10日
 思えば、この辺りは、江戸三座のあった芝居のメッカであり、脂粉ただよい、粋な黒塀の三業地として、にぎわったところです。
 「医界之鉄椎」という固いタイトルと言い、啓十郎の漢方復興の執念といい、なにやら余りに異質なものを感じざるを得ません。彼はどんな思いで隅田川の川風を頬に受けて、芝居帰りの人々の嬌声を耳にしていたのでしょうか?今日の漢方を語る時、関係者の口をついで必ず最初に登場するのは和田啓十郎の業績です。題して「漢方復興物語り」。

(明治時代の説明)

 「ざん切り頭をたたけば文明開化の音がする」

 明治維新、「日本の近代化を西洋化と勘違いしている人々がいるのは非情に残念である。日本は近代化する必要はあるが西洋化する必要はない」と言いきったのは幕末の老中安藤対馬の守でしたが、近代化を西洋化とはきちがえた明治政府の下、どれだけの日本文化が失われたことか。邦楽も見捨てられ、日本で「クラシック」はオペラというのが現実です。医療の面でも科学的でないと、明治政府が明治7年に西洋医学採用を公布し、707年の大宝律令以来、連綿と受け継がれてきた医療制度を変え、中国から渡来して日本に馴染んだ東洋医学を排除し、ドイツ医学を範とする医事制度を確立してしまったのです。

(明治時代の漢方受難)
 明治初期、中期、末期と続く漢方受難の時代に、何と言っても漢方復興のきっかけとなりましたのは先程紹介した和田啓十郎の「医界之鉄椎」という1冊の本だったのです。「鉄椎」というのは二千年の昔、秦の始皇帝が天下を統一すると、皆が恐れて誰も声を出すものもなくひれ伏しました。この時、張良と言う人が遠い東国から怪力の大男を探し出し、博浪沙の荒野で始皇帝の馬車をめがけて鉄椎をなげつけさせましたところから、正義の鉄椎。
始皇帝は西洋医学、和田啓十郎はその鉄椎のつもりで書いたのです。この「医界之鉄椎」とはどういう本だったのかを語る前に、漢方撲滅運動の嵐の中単身立ち向かった和田啓十郎とは、どのような人物だったのでしょうか?
(和田啓十郎の生い立ち) 
彼は明治5年10月10日に、長野県は松代市に松代藩士和田牧治、りや夫婦の7番目として生まれました。女5人男2人の次男でございました。彼がまだ7、8才の頃、家族に病人が出ました。10才上の長女のユキです。その名の通り色白で、生まれつき丈夫な方ではありませんでしたが、長女と言う事で下の面倒をよく見、啓十郎にも優しく接してくれました。
 ところがユキが12、3才頃に度々腹痛を訴え始めるようになりました。心配した両親は早速医者を呼び治療にあたりますが、難病とみえなかなか良くなりません。それからなんと五年間もの間、地方では名医といわれる十数人の医者に次々に見てもらい、それぞれの医者の薬を4、5ヶ月ないし1年あまり服用しても手に負えませんでした。そうこうする内にもう、17才。本来なら、娘らしくふっくらとしてくる年頃ですが、ユキの体はすっかりやつれ、痩せ衰えるているのに腹だけが張っている有り様です。苦しむばかりでふびんだな、と両親始め家族中が悲嘆にくれております。
そんなある日、ユキが母りやに向かってこう言います。
「お母さん、私はこれから先も、治らないでこのままなのかな」
「何をいうんだい。病は気からといってな、病気になんて負けないぞという気持ちがなければだめじゃないか、まだ若いのだから、きっと良くなるよ」
近頃では決まり文句のようにこんな会話が交わされておりますが、母の声も曇りがちです。
しばらくの沈黙の後、ユキは意を決したようにこういいいました。
「お母さん、前に言ってた、ほら、あのうすぎたないなりの漢方の先生に頼んでくれませんか?」
「えっ、うすぎたない漢方の先生?」
その時、りやはだいぶ以前に親戚の一人がユキの枕元でこう言っていたのを思い出したのです。
「漢方をする人なんだが、患者が少なくて貧乏で、着ているものもこういちゃあなんだがうすぎたないという話だ。だが、腕は神業で利き目があるっていうんだがな」  貧乏で患者が少ないなんてろくな医者ではないだろうと、りやはあなどって聞き流していたのに、ユキはこの話を覚えていたのです。こうなったらと、藁にも縋る思いで頼む事にしましたが、わらじ履きで徒歩でてくてくやってきた彼を見た家族は皆驚いてしまいました。髪はぼさぼさで衣服は破れ放題、無精髭まで生やしている。
「なるほど、これはうすぎたない、汚さ日本一!」なんてそんなに強調しなくてもいいのですが、しかし、なんと彼の調合した薬を飲み出したユキは半年で快方に向かい、一年後には全快することが出来たのでした。
 
 「あんなに何人もの医者で治らなかったのに、このぼさぼさ頭のおじさんが、ユキねいちゃんを助けてくれた、人は見かけによらないってこの事だな」
 この時啓十郎少年が学んだのは「良医、良い医者」と言うのはピカピカの人力車で乗りつける事ではなく、診察料が金貨五枚とか十枚とかいうのでもなく、新式のゴム製や金属製の器具の事でもない。歩いて往診する貧しい医者でも難病を治療し、患者を一日でも早く回復させる事が出来る人の事である。そして「良薬、良い薬」というものは別に東洋とか西洋とかいうものでもなく、高価な方がよいというものでもなく、本当にその人に必要な薬剤を処方するものである。という医学に携わるものの原点を学んだのでした。そして、もし、将来医者になったならば漢方医学を勉強したいものだ、と幼心に深く刻み込んだのです。
 
 さて、和田家は由緒正しい家ではありましたが、ユキの医療費にもうかなりの出費をしており余裕がありませんでした。啓十郎は小学校をでてすぐ奉公に出されますが、どうしても勉強がしたくて、戻ってきて尋常中学に入学し、明治 年 才の時に卒業します。 才と言えば人生について真剣に悩む年頃でもあります。もともと、物事をとことん納得が行くまで追求する性格の彼は、人は何のため生きるのか、自分はどこからきてどこへゆくのか人一倍真剣に悩んだようです。その答えを見い出そうと、キリスト教を学びますが、満足できません。僧侶について教典を学び、修行をしますが、まだ、答えはでませんでした。
 その翌年20歳の時、「そうだ、自分は自分の事を考えるのではなく、医師になって人の事を考え、病める人々を救おう」と、子供の頃の体験を思い出し、医学専門学校済生学舎に入学します。日本医科大学の前身ですね。そしてその歳に古本屋で江戸時代の漢方医、吉益東洞の「医事或問」に出会うのです。
 まさしく、運命の出合いと言うのでしょう。この吉益東洞の本との出合いがなければ、彼はもしかしたら漢方にのめり込む事もなく、したがって「医界の鉄槌」を発表する事もなく、今日の日本で漢方は滅んでいたかもしれないのです。それぐらいすごい人なのです。どうすごいか、簡単に紹介いたします。

 大平続く江戸時代の中ごろ、吉益東洞はのんびりと惰眠をむさぼっていた医者達にいかに早く実践的医術を習得させるかに腐心した改革者、先駆者ともいわれております。彼は戦国時代に活躍した永田徳本、「とくほん」どっかで聞いた事がありますね。そうです。あのトクホン本舗の名は永田徳本からとったと言う訳です。大変な名医で欲がなく、118歳まで生きたそうですが、吉益東洞は徳本の流れを組む「万病一毒説」を唱えました。その主張はというと

「もろもろの病気にはどれもただ一つの毒があって、その毒が動いて万病を発するのである。頭にあれば頭の病気になり、腰にあれば腰の病気になり、……千変万化して数えることはできない」
 吉益東洞は毒がどこからくるかは問題としません。毒が体のどこにあるかが重要なのです。毒の所在によってあるいは胸痛となり、あるいは腹痛となり、あるいは頭痛となります。毒を除くものが薬です。当時の医師たちは危険を恐れて人参だとか甘草だとか反応の温和なものばかり用いました。東洞は毒の所在を突きとめると激烈な薬を用いて毒を駆除しました。盛る薬がみな劇しく下痢や嘔吐を起こし、中には気絶する者さえありました。

「真の医者は、毒の形状を診て薬を与え、病根を抜き去るので、再発しないのである。このように、再発しないようにすれば病根が動くので、必ず薬が病毒に当たって"瞑眩"、すなわち目がくらむような激しい反応が起きるのである、この瞑眩を恐れて、体を害すると思うのは大きな誤りである.。薬は体を傷つけるものではない。その証拠に、瞑眩すれば病毒が減じ、そのあと格別に健康になるのである。」
 薬も毒の一種だ。毒以って毒を制する。これが彼の治療の根本の原理でした。身中で毒と毒とが闘うとき激しい反応が起こる。彼はこの現象を瞑眩(めいげん)と呼びました。瞑眩せざれば治癒することなしというのです。この結果多くの患者はけろりと全快しました。しかし、人々の間には恐ろしい医者という評判が広まっていきます。一般の患者に対してだげではなく、家族に対しても同様でした。 二番目の男の子が可愛い盛りの四歳になりますと痘瘡(ほうそう)を患い、重症におちいりました。東洞は意を決して紫円という峻剤を与えました。その結果は一時快方に向うかに見えましたが、ついに亡くなってしまうのです。
 それから数年後妹がまた同じ痘瘡にかかり病状も同じく苦悶し始めました。東洞は再び紫円を与えようとします。妻は泣いて止めました。「おまえ様はまた我が子を殺そうとするのですか、お止め下さい、後生です」。
 しかし東洞はやめません。「死生は天にあり。自分の知るところではない。この病に対してはこの方法しかないのだ」。紫円を飲ませだすと幼女の苦悶は一段と激しく一時は死んだかと思われましたがやがて全快しました。
 そして生き死に、死生を考えると心が乱れ病症が見えなくなり、かえって死生を誤ることになるものだと彼は弟子たちに教えました。彼の自信は親試実験によって裏付けられているのです。
如何です。すごい人でしょう。わが子をこういっちゃなんですが、実験台にした上、
「万一、治療の途中で死ぬようなことがあっても、それは天命であって、天ならぬ医者のあずかり知らぬところである。」
今、こんな事を言う医者がいたら袋だたきに合ってしまいますよ。

 私達現代人の眼から見れば、荒唐無稽で乱暴な主張に思える吉益東洞の主張。当時の一流の医師たちも、その人命に対する考え方や独断的な考え方に対して非難を浴びせておりました。
啓十郎も東洞の説に全面的に賛成しているわけではないのですが、しかし、東洞の革新性、カリスマ性のせいか、深く心酔していたことは確かなようです。「医界之鉄椎」では巻頭に東洞の肖像画をあげ、「吉益東洞翁は又とない医者なり。かがり火のように物事を見極める翁の偉大な眼の光は千年もの長い間医界を照す」と彼をほめたたえ、その命日には東洞の肖像の前に香を焚いて礼拝するのを例としたと言われております。

 さて、話は戻ります。このように、多感な時期に吉益東洞の「医事或問」に巡り会い感激した彼は何度も読み替えし、ただちに漢方医に弟子入りしようと実行に移します。たまたま、近くに住んでいた多田民之助という漢方医に師事し漢方を学び始めるのです。しかし、当時は先程も申しましたが漢方撲滅運動のさなかでしたのでほとんど患者もなく、師も住み込み弟子の啓十郎もともに餓死しそうになって、多田先生はやむなくそれからわずか半年で郷里へ帰ってしまいました。しかし、胸にともった漢方への思いはその後ますます募ってゆくのです。彼が師事した多田民之助は無名の漢方医でしたが、貧乏生活をしながらも平然としており、食べる米がなくなると薬嚢を携えては「さて、行ってくるかな」と往診に出かけ、幾らかの金をこしらえて帰ってくるといった生活だったそうですが、何よりもここで彼は医療態度とか、医者の心構えと言ったものを学ぶ事ができたのです。
啓十郎は済生学舎を経て、最初は中御徒町、移転して本所と開業しますが、漢方を標榜した開業は結局うまく行きません。明治 年に郷里の女性と結婚し、翌年には郷里へ居を移し、そこで開業します。
故郷へ帰ってからは田舎医者として一般診療に傍ら、村医、校医を務めると共に
閑静な自然の中で読書勉強に励みます。ここで後の著述の基礎を培ったのでした。まもなく長男長女も誕生し、充実した5年間でした。その後、日露戦争の軍医を経て、再び東京は浜町で開業致します。
 
 啓十郎は済生学舎で西洋医学も学んでいますので東洋医学、西洋医学のそれぞれの長所、短所を熟知しておりましたが、残念な事に5年ぶりの東京では「漢方撲滅運動」の成果が浸透し、漢方に対する偏見、無視が極まっておりました。
啓十郎はがく然とし焦りを覚えます。
「こんな事ではいけない。漢方は誤解されているばかりか、蔑まれているではないか!西洋医学は病人と病気を別々に考え、病気のみを治す医学だが、人には心がある。気力がある。「正気」があり「邪気」がある。「陰」があり「陽」がある。それが人間だ。人の心と、体をひとつととらえ、それぞれの寿命の中で、元気に幸せに生きてゆけるよう人を丸ごと見るのが東洋医学、漢方だ。だが、あきらめてはならない。大衆に本物を見抜く目があったら、必ず漢方は復興に違いない。よし、自分は大衆に漢方の良さを訴えよう!」
こうして、著作の準備を始めた彼は、漢方医学の復興を祈願し、神田明神に日参したと申します。
しかし、思いのたけをしたため、新聞、雑誌に投書してもすべて没にされてしまいます。おそらく内容を読もうともしないのでしょう。啓十郎は考えました。「記事にとりあげてもらうには専門家、医者達の理解が必要だ」そこで、内科学会に入会して早速研究会に出席し、発言の機会を待っております。
ところが「私、和田啓十郎は漢方のやっております。」と自己紹介をしたとたんに、どっとあざけりと冷笑と爆笑の渦が巻き起こりました。
「漢方ですと、漢方のような陳腐なものをやっている方は我々と同席されては困ります。」
「漢方には基礎医学がないではないか、非科学的で話にならん」
「第一、草の根や木の皮が体にいいはずがない」
「漢方薬はまどろこしくて、役に立たない」
「漢方をやる医者は荒唐無稽である」いや出るわ、出るわ、。鬼の首をとったように、親のかたきに出くわしたみたいに、どんなに温厚そうな人でも逆上して食って掛かってくる。啓十郎も負けじと総会や研究会の度に講演を申し込みますが、何時も最後に回されてしまう。その挙げ句に「次は和田先生の番です、なに?時間がない、それは残念。先生お聞きのように、ちょうど時間となりました。また、次の機会に」と体よく封じられてしまうのでした。
なぜこれほどまでに排斥されたのでしょうか?日本人のコンプレックスの裏返しだったのかも知れません。
「文明開化」「富国強兵」明治政府は西洋に追こう必死でした。日本的なものを蔑む。洋装に身を固め、まげを落とし、外見から西洋っぽくしてゆく。が、着物はきなければ良いが医者にはかからない訳には行かない。いくら西洋医学を広めても、漢方は人々の生活溶け込んでいる。漢方が憎い、徹底的にやっつけろと、伝統的文化の代表として、排斥運動の目玉にされてしまったような気がします。