台本
スライド資料
アンケート 
上演にあたって                講談師 神田 香織
「歴史」は必ず誰かに都合良く書かれていると言われております。合戦があれば勝った方の歴史が残り、残念ながら負けたほうの記録は抹殺されてしまいます。
 講談は「軍記読み」にその源を発しますが、必ずしも勝者の側に立つものではありません。反骨の講談師たちは敗者の名誉のためにも熱弁をふるったからこそ、庶民に喜ばれ、大衆芸能として今日まで残っているのだと私は考えます。もちろん、ある時代から別の時代を語るのは決してやさしい事ではありません。時代が違えば社会体制が違い常識が違い、倫理も道徳も違うからです。
 しかし混乱の幕末にあって、一時期日本のかじ取りを任されたほどの人が、「朝敵」の汚名を着たままというのは・・・割り切れない想いがするのは私だけではないのではないでしょうか?

 「大平の眠りを覚ます蒸気船、たった四杯で夜も眠れず」
 時は、嘉永六年六月の三日。アメリカ、東インド艦隊指令長官ペリーに率いられた四隻の船が、三浦半島の沖合いに碇を下ろしました。真っ黒な船体、天に沖する黒煙、人々はこの異様な船を黒船と呼んで恐れおののき日本国中、上を下への大騒ぎとなります。
 それから七年後、大老伊井掃部頭直弼が、桜田門外において水戸脱藩浪士達に討たれる、いわゆる「桜田門外の変」が勃発。その後を受け、疾風怒濤の時代に幕閣最後の砦として生き抜いたのが先の磐城平藩城主、安藤対馬の守信正その人でありました・・・。
 舞台はスライドや郷土史家を交え、当時の国内外情勢やいわきの様子を分かりやすくナビゲートしつつ、講談、役者の演技で安藤公の実像に迫ります。照明、音響効果が更にドラマチックに盛り上げる、神田香織お馴染みの立体ばらえてぃ講談でお楽しみ下さい。
安藤対馬守(あんどうつしまのかみ) 平藩主    1819生−1871年没  

 安藤信正は藩財政の立て直しをし、学問や武芸を奨励しまし た。幕府老中として外国公使との交渉にあたり、その手腕は高く評価されました。公武合体策も進めましたが、彼の政策 に反対する者により坂下門で襲撃されました。

安藤信正は文政2年(1819)11月25日、江戸蛎殻町(東京都中央区日本橋)の安藤家中屋敷で生まれました。父は磐城平藩主安藤信由、母は三河国(愛知県)吉田藩主松平信明の娘でした。弘化4年(1847)6月、父信由の死去によって藩主となった信正は、まず藩政の改革にとりかかりました。宝暦6年(1756)、美濃国(岐阜県)加納から、安藤家が磐城平5万 石に国替えになった時は、70万両の藩の借金があり、これを減らすためには、思い切った藩財政のたて直しをしなければなりませんでした。このため信正は、まず出費を減らし、家臣の人員整理などを 行い、老中に就任した万延元年(1860)には、借金は40万両 にまで減りました。 また、家臣の気風の乱れを防ぐため、学問や武芸を大いに奨励し、盛んにしました。そのため、藩校の施政堂からは磐城三藩の学問の中心として、多くの人材が育ってゆきました。

嘉永元年(1848)1月、信正は奏者番を命ぜられました。嘉永4年には寺社奉行となります。 信正が幕府の政治に加わった時期は、これまで鎖国を続けて きた日本が、世界の国々から開国をせまられている時代でし た。アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの2度の浦賀来航により、幕府は日米和親条約を結びます。その後、イギリス、ロシア、オランダなどと次々と条約が結ばれました。

  世論は騒然として、開国論、攘夷論がとなえられました。安政5年(1856)4月、彦根藩主井伊直弼が大老になると強硬策をとり、日米通商条約の調印や攘夷派の弾圧にのり出しました。その後、信正は若年寄となるのです。

 万延元年(1860)1月15日、信正は老中となり、外国事務の 担当を命ぜられました。大老井使直弼が桜印門外で水戸浪士らに暗殺されたのは、この年の3月3日のことでした。この 時、幕府には四人の老中がおりましたが、この重大な危機に 対応することが出来たのは信正一人でした。彼は、直弼が負傷はしたがまだ生きているという前提で、極めて政治的な考えから、彦根藩の断絶と水戸家に対する制裁をさけるために 行動し、事態を収めました。

  信正はまた、さきに井伊直弼が公武合体策を進めていたのを うけて、将軍家茂の御台所に孝明天皇の妹和宮親子内親王の降嫁を実現させました。 信正が老中職にあった3年3カ月、外国公使との交渉は絶え間なく続きました。そして、アメリカやヨーロッパへの使節団の派遣、諸外国との条約締結、小 笠原諸島の領有通達、ロシアとの樺太国境線決定交渉など、多くの課題にとり組んでいます。

 文久2年(1862)1月15日、西丸下(現皇居外苑)の邸をでて坂下門に向かう信正の行列は、待ちうけていた水戸浪士ら六人によって襲撃されました。信正は傷を負って邸で療養することになりました。が、外交面は他の老中では荷が重すぎ、療養中にも邸で外国公使との応対にあたらねばなりませんでした。やがて傷もなおり、ふたたび信正は出勤するのですが、幕府内の情勢がもはや自分の目ざすものでなくなったことをさとり、4月に老中職を辞任しました。

  晩年の信正は、無口で物静か、人との交際をさけて終日ものを言わない日も多かったといいます。夫人とともに東京で余命を過ごし、明治4年(1870)10月8日、その波乱にみちた 一生を終えました。53才でした。

(いわき人物列伝より)


 戻る