舞台 
シンプルで克効果的なプラン(別紙)
スライド用スクリーン(紗幕など)
講談用高座

プロローグ「小笠原諸島と安藤対馬守」(10分)
小笠原諸島へようこそ!
乗船案内
「あがさわら丸にご乗船ありがとうございます。〜」
音楽・SE
 船の汽笛、下船の音楽
 おがさわら丸 父島 二見港に入航
舞台は薄明かり、波なども見えている

スライド
おがさわら丸、くじら・いるか、海中写真など数点

おがさわら丸 船長(永井寛孝)
「いわき市の皆様、ご乗船ありがとうございます。私はこの船の船長の〜ともうします、
 当小笠原丸は小笠原諸島父島二見港に向けて順調に航海しております。東京から南南東へ千キロ、28時間、の船旅でございます。
小笠原諸島は、大小30余りの島々からなっています。北から聟島(むこじま)列島、父島列島、母島列島、硫黄列島と南へ延びています。
 小笠原の海は、世界で最も透明度が高い海といわれ、水中では色とりどりの海水魚や造焦サンゴ類が目を楽しませてくれます。 船が父島・二見港に近づくと、海の色がコバルトブルーからエメラルドグリーン、そしてトルコ石のようなあざやかなブルーへと変化していきます。砂浜は白いサンゴのかけらから出来、村のはずれは緑のジャングル地 帯。マングローブやタコの木が生い茂りブーゲンビリアやハイビスカス の花々の咲く常夏の楽園。それが小笠原です。
さて、 小笠原諸島は 幕末に彗星の如く登場し諸外国との平和外交につとめた安藤対馬守が日本の領土とさだめたといわれております。 はい、いわき市は平藩のお殿様だった方ですから皆様よくご存じの、えっつ、知らない?、まさか・・・。わずか五万石と言う小藩ながら今日の総理大臣と外務大臣を兼務した方ですよ。彼が外交に当たらなければ、日本はどこかの国の植民地になっていた、とも言われているのに?本当にご存じない?困りましたね・・・。それでは、その話は当、小笠原丸専属の講談師に後ほど語らせる事といたしまして、私は島の歴史をご紹介いたしします。
小笠原列島は明暦年間〔一六五五〜)徳川家康の家臣小笠原貞頼が発見しました。家康は領有を確認して発見者の名をとり、小笠原と命名します。享保年間(一七一六〜)、将軍吉宗は日本領土として小笠原貞任を小笠原に派遣しました。
 文政六年(一八二三)、諸外国が東洋の国々を盛んに侵攻していたころ、アメリカ捕鯨船長マッフィンは、小笠原諸島に立ち寄り、マッフイン諸島と命名します。
 文政十年(一八二七)には、イギリス測量船プロッソム号ビーチェー船長が来航し、島をフランセス・べーリーと名付け、領有しようとしました。
 三年後の天保元年(一八三〇)には、アメリカ人ナザニエル・サポリなどが、島の聞拓に入ります。
天保十年(一八三九)には小笠原に密航をはかり、ひそかに海外渡航を企てた容疑者として逮捕された、渡辺輩山、高野長英、小関三英の“蛮杜の獄”がおこります。
 嘉永六年(一八五三)にはアメリカ東印度司令長宮ペリーが、艦隊四隻をひきつれて来航してきた際、島にへんぽんと星条旗をなびかせました。当時、小笠原島にはアメリカの捕鯨船が勝手に立ち寄り、アメリカ人十数人が住んでいたといわれております。
 文久元年夏、信正はイギリス公使オールコックと歓談中「小笠原はいずれの国の領有にすべきであるか」と、幕府に質問されたのを機会に、間髪を入れずに応対し、行動した成果は称費に値するものでございました。
 信正は、水野忠徳らを小笠原に派遣し、本土領海内であり、日本領土であることを確認し、表明します。
こうして小笠原の日本国土復帰は実現させたのであります。
 同年、信正は、坂下門外の事変のため退宮しましたが、幕府は信正の政策を継承し、元治元年(一八六四)にアメリカ人ナザニエル・サボリら住人を小笠原から追放、代償として千ドルを支払いました。明治三年(一八七〇)、谷陽郷らが同列島をくまなく探検、同六年(一八七三)、アメリカはついに小笠原領有を放棄し、完全に日本領有となったのであります。
 こうして我々はこの自然に恵まれた小笠原を楽しむことができるわけです。
安藤信正公のおかげでみなさんを、こうして小笠原にご案内できるというわけです。
それでは、鯨やイルカのの待つ小笠原小笠原へのクルージングをたっぷりとお楽しみください。
 
 
スライド
地図、父島全景 

出囃し
舞台、明るくなって神田香織登場 舞台中央の釈台に板付く 
後ろ幕もダウン
口上 神田香織

皆様こんばんは、神田香織です。
 私事で恐縮ですが、いわき市に居を移して五年になります。その間「地域興しは語りから」という事で三年前には南部に残る、伝説を芝居と語りで構成した作品「いわき発安寿と厨子王物語」を発表しました。
 そしてこのたびいわき商工会議所青年部の皆様が中心となっての舞台、「磐城平藩主安藤対馬守、見参」に参加させていただき、多くのことを学ぶ事が出来ました。まずは心より御礼申し上げます。
また地域学会の先生方はじめ、多くの方にご指導を賜りあわせて御礼申し上げます。

 さて、作品を作り上げてゆく中で、私は多くの感動的な場面に出会いました。
ひとつは、あの先が見えない動乱の幕末にあって、安藤公はどうして、正確に迅速に日本の利益を見極められることが出来たのか、先ほどの小笠原諸島のように諸外国に対して堂々と渡り合うことができたのか、という点です。どこかの大国の顔色ばかりうかがっている、今の日本の外交姿勢と比べると雲泥の差があるような気がします。
 また、歴史とゴルフに「たら、れば、」がないのはじゅうじゅう承知してますが、もし、彼がいなければ、今頃、山口県ではフランス語を話し、熊本あたりではポルトガル語が公用語になっていたかもしれないし、日本の国土は本州の一部しかなかったかもしれないのですから・・。
講釈師が嘘いってるな、と思われるかもしれませんが、本当なんです。

 ふたつ目は、なぜ彼の業績が正当に評価されないで今日に至っているのか、と言う点です。
むかしから「歴史」は必ず誰かに都合良く書かれていると言われており、合戦があれば勝った方の歴史が残り、残念ながら負けたほうの記録は抹殺されてしまいがちですが、それにしても姦物、逆賊、朝敵とまでいわれたのはなぜなのか。勝てば官軍ということなのでしょうが、一説によると大変な美男子だったそうで
「その人となり聡明であり、機敏の才と応変の妙がある。加うるに眉目秀麗にして白哲長 なり」
と言われ、風貌、才覚ともに天下の貴公子然としていたことが反感を買ったともいわれております。
早い話がやかっみですね。昔も今もいるんです、こういう輩が。私も講談界一の美女といわれ、どれほどのいじめを受けたことか・・・話がそれてしまいました、失礼。
 さて、この安藤公、地元でも、「城に火をつけて逃げた殿様、」と言われているのは、彼の業績を考えるとき残念でなりません。孫子の兵法の昔から、敵が迫ってきたら、敵に占領されないよう城に火をつけて退却し、別の場所に陣地をうつすのは戦のセオリーなのです。しかもこのころ藩主は信勇に代わっており、彼は隠居の身だったのです。
 思い起こせば、去年のNHK日曜夜の大河ドラマは、「徳川慶喜」でした。ドラマの中の安藤信正は老中の一人としての扱いに終始しました。NHKも大したことないな、受信料払いたくないと思った方も少なくないと思います。
事実は、大老井伊直弼が桜田門外で暗殺されたそのあとをうけ、幕閣最後の砦として二年六ヶ月という短いが重要な時期に信正は大局をリードして国運を大過なく導いて行くのです。疾風狂乱怒濤の時代に、です。
信正は坂下門外の変を頂点に政治の表舞台から身を引きますが、その後の政局はどうかというと、欧米列強の圧力に屈して終いには、信正の政治路線を踏襲せざるを得なくなってゆくのです。
 ま、業績についてはこれからお聞きいただきますが、私がすきな安藤公の言葉をご紹介して口上の挨拶に代えさせていただきます。
安藤公のこの考え方を明治政府が取り入れていれば、やたら、外国のクラシック音楽や、オペラをありがたがる国に、日本はなっていなかったのではないでしょうか。
「日本の近代化を西洋化と考え違いをしている者がいるのは非常に残念である。日本は近代化する必要はあるが西洋化する必要はない」

浪人(永井)「国賊 安藤対馬守 お命、ちょうだいつかまつる」

叫びながら登場
 
再び、浪人(永井)叫びながら登場
神田香織 浪人を呼び止め

浪人(永井)はあ、はあと息をきらせて(やや、滑稽な調子で)
「安藤対馬守がいるかぎり、俺達の日本はやってこない・・・
俺が夷人をねらうのは ほかの浪人どものようなうさ晴らしで はない。世直しだぞー姦賊安藤対馬 守を殺すことで、美しい 日本を取り戻す。そのため、我が身をなげうって 日夜、
けなげにもがんばっているんだぞーこんなにがんばっているんだ から、飯を食わせるのは当たり前だー当たり前だぞー」

神田香織「あらあら、あんたお腹が減っているのね。それで、目も見え なくなってるんだわ。ところであんたの目どこに付いているの?  あ、それ目なの、眉毛の陰かと思ったわ。 冗談よ、ね、ご飯を 食べさせてあげるから、落ち着いて私の話を聞くのよ。だれかー お茶漬けでも持ってきて そうそう、いわきの海でとれたメヒカ リもつけておあげ」

お盆に、お茶碗 もって出てくる
浪人出された茶漬けをがつがつ食い始める。

神田香織「これから、安藤公のことを話してあげるから、
そこに坐っておききなさい。
まずは、幕末の時代背景からね」
音楽 ブリッジ
後ろ幕アップ
舞台スライドが見える程度に暗くなる
スライド 黒船 ペリー

「幕末の時代状況」
 桜田門外の変をさかのぼること七年、嘉永六年六月三日。アメリカ、東インド艦隊指令長官ペリーに率いられた四隻の船が、三浦半島の沖合に碇を下ろしました、真黒な船体、天に沖する黒煙、人々はこの異様な船を黒船と呼んで恐れおののきました、この夜、久星浜海岸は警戒にあたる人でうづまり、かがり火は天をこがさんばかり。一方、アメリカ艦隊は威嚇射撃を繰り返し、砲声は、太平になれた江戸市民を恐怖のどん底につき落しました。
 「大平の眠りを覚ます蒸気船、たった四杯で夜も眠れず」
 さあ大変、帆掛舟しか見たことのない日本人が吃驚仰天するのは当たリ前、日本国中が黒船パニックに襲われ、上を下への大騒ぎとなるのであります。

 これより先、幕府は、外国船が来たら大砲をぶちこんで追っ払ってしまえという、「異国船打払令」を出して、沿岸に砲台を簗き、実際に浦賀に入港した、アメリカの商船、モリソン号を砲撃するなどという、寝呆けたことをやっていたのであります。ところが、清国の商人から阿片戦争の情報を聞いて愕然とするのであります。

スライド アヘン戦争 

 天保十一年(一八四〇)清国が英国の阿片の輸入を禁止したことから、戦争になリ、敗れた清国は香港をとられてしまいます。
 当時、ヨーロツパの国々は、近代兵器を手に、きそってアジア諸国に植民地化の魔手を伸ばしていたのであります。眠れる獅子とか超大国といわれていた清も、沿岸の重要地点は、みんな治外法権の居貿地として、事実上占領され、国はずたずたにされてしまっていたのであります。
 すでに、インドは英国の植民地でした。白人達の植民地支配は残忍を極め、独立運動の志士達は、捉えられて、その六親等に至るまで、硫酸に漬けられれて殺されたともうします。フランスはインドシナを奪いました。維新当時、アジアで独立を保っていたのは、日本とタイだけであリます。奇跡というほかはあリません。
 先ほどももうしましたようにこのことに安藤対馬守が深く関わっているわけでございます。
 安藤対馬守がいなかったら〜考えただけでも恐ろしくなります。

 天保十三年(一八四二)時の老中、水野忠邦は、異国船打払令を改め、外国船に薪水食糧等の供給を約束いたしました。前から友好関係にあったオランダ国王も、鎖国政策を止め開国することを進言してきたのであリます。

 安政元年(一八五四。)一月十六目、ペリーが率いる軍艦七隻が、再び来航、幕府は交渉引き延ばしをはかったのですが、それに対してペリーは前年同様、軍事力をちらつかせて威せき、三月三日、日米和親条約が一方的圧力の前に屈して調印されたのであリます。この事態に直面した幕府の緊急課題は、権力の集中化、統一化でなければならない。然るに、国論は開国と攘夷に二分し、国内が相争うという収集のつかない状況に落ち込んでゆくのであリます。

 安政三年、日米和親条約によって、初代総領事ハリスが着任、日米通商条約の締結を要求いたしました。当時すでに開国に傾いていた幕府は、老中堀田正睦が上京し、勅許を奏請しましたが、孝明天皇が極端な排外主義者だった上、攘夷派の志士達が公家に趣夷思想を注ぎ込んでいたため勅許は得られなかったのであリます。

スライド ハリス 徳川斉昭 

 この条約調印間題に加えて、十三代将軍、家定の跡継ぎ問題がからみ、次期将軍は、一ツ橋慶喜にすベしという越前の松平慶永らを中心とした幕政改革派の大名および幕臣たちの一ツ橋派と、紀州藩の徳川慶福にすベしという、井伊直弼ら溜りの間詰の保守派の譜代大名の南紀派が対立、時局を愈々紛糾させたのであります。一ツ橋慶喜の父、水戸の徳川斉昭は強固な攘夷論者で、その排外思相を振リ回し、世間一般に攘夷の気運を煽リたてましたから、尊皇敬幕の水戸藩は「尊皇攘夷」の聖地の如き観を呈し、水戸を訪れる若者ひきもきらずという有様になります。そしてそれに、輪をかけたのが、水戸学者の藤田東湖であります。彼が作詞した五言絶旬「正気の歌」は読む者の魂をゆさぶり、国酔主義思相をかりたててゆきます。
 吉田松陰も水戸を訪れておりますし、酉郷隆盛も藤田東湖の教えを受けておリ、いつしか水戸は攘夷倒幕の震源地の観を呈するに至ります。水戸は、幕府にとっては、厄介千萬な存在だったのであります。
 外からは開国を迫られ、国内からは攘夷を迫られて、幕府は板ばさみとなって窮地に追い込まれていく訳であります。

スライド 井伊直弼

 安政五年(一八五八)四月二十九日この難局に、彦棋藩主、井伊直弼が抜擢されて大老に就任致します。
 直弼は、六月十九日 勅許の無いまま日米通商条約に調印、十四代将軍は、紀州の徳川慶福と一刀両断の勢いで解決、ひとたび日米通商条約が調印されると、あとはなし崩し、日蘭、日露、日英、日仏と修好通商条約がいづれも勅許なしで調印。
 直弼の違勅調印を責めるために、定例の登城日でもないのに幕法を破って登城した斉昭を直弼は護慎、慶永・慶勝を護慎隠居、慶篇・慶喜に登城停止を命じます。直弼からすれば大老が決断し幕政を進めることは自明の理であり幕法を無視する一ツ橋派は、単なる政敵ではなく、幕府そのものを脅かす敵対勢力であったのです。
 孝明天皇は「条約詐容は神州の恥辱、言語同断」と激怒、直弼は無断条約の釈明を求める朝廷の「三家並びに大老のうち早々上京」と記された沙汰書を受け取リましたが、三家は処分中、自分は政務多忙とそっけなく拒否、この直弼の不遜な態度に孝明天皇はじめ攘夷派公家や志士は激怒、京都の攘夷熟は一気に高まリました。
ここに至り直弼は京都の粛正を、決断、安政の大獄が始まります。

スライド 安藤信正

 そしてその翌年万延元年(一七六〇)正月、磐城平藩主安藤信正は、老中として井伊の幕閣に加わり、外国掛り老中として外交の任に当たることになるのです。
また、攘夷倒幕の先頭を切っているという印象を世間に与えていた水戸藩は、水戸学という両刃の剣、即ち、光圀が教え残した「天皇は我、主君である。将軍は我、宗家(本家)である。名分を誤る無かれ。」という水戸学精神の要諦をどこまでも忠実に守って、あくまでもその根本的な立場は、「尊王敬幕」であり、尊攘激派、と佐幕鎮派といっても、学派分裂に端を発する感情的な愛憎がつみかさなって両極端へ追い込まれてゆきます。およそ内ゲバ程度の生やさしいものではなく、これら同士相討つ内紛、内戦によって水戸は幾多の人材を失い、水戸藩が原動力となって簗いた明治維新に廟堂に連なる水戸人は一人もないという事態を招くに至ったのであります。
幕末、時代背景の一席

舞台 やや明るくなって

 神田香織「どう、あんたの置かれている位置がよーく解ったでしょう。ところであんた顔色が変わったけどどこから来たの、 当ててあげましょうか、納豆で有名なとこ。
これからが本題ですよ、安藤公の話をしてあげましょう。
 さあ、そのちちゃこい目をかっぽじいてよく聞くのよ」
浪人「目は関係ないでしょう」などのリアクションがあって

講談「桜田門外ノ変」(約8分)

スライド 安藤信正

安藤信正は文政二年(一八一九)十一月二十五日、江戸蛎殻町の安藤中屋敷で生まれました。父は磐城平藩主九代安藤信由、母は三河の国吉田藩主松平信明の娘でした。信正の名は幼年、欽之進、長じて 信行、そして信正、老年鶴翁と、各時代によってあらためられておりますが、老中時代の終わりに用いられた信正の名が良く知られ用いられております。弘化四年(一八四七)六月、父信由の死去によって藩主となります。そしてその翌年嘉永元年(一八四八)一月奏者番を命ぜられました。永四年には寺社奉公見習いとなり、その年に寺社奉公となりました。全国の寺社および寺社領に関わる公事訴訟を取り扱うのです。 安政五年(一八五八)信正は若年寄を命ぜられています。
 そして、万延元年(1860)正月15日、信正は大老直弼の片腕として老中に迎えられ、外国御用の任を命ぜられました。この時信正四十二歳、現在の外務大臣と言ったところでしょう。
 大老井伊直弼が桜田門外で水戸藩士らに暗殺されたのは、就任四十七日後の三月三日、節旬の儀式がとりおこなわれる日のことでした。この日は三月には珍しく雪が降っておりました。一面の白銀の世界を血で染め、江戸市民の心を競々(きょうきょう)とせしめた桜田門外の変とはどのような事件だったのでしょうか。
 当時は藩主が自らの過失で死亡、または生前に跡目相続をせずに死んだ場合は、お家断絶という幕府のきついおきてがありました。井伊直弼(なおすけ)の死はまさにこれに相当し、溜(たま)りの間詰め筆頭大名である名家の井伊家はお取りつぶしとなり、藩士は浪々の身となる運命にあったのです。
 現在でいえば内閣総理大臣にあたる人物を、白昼二十名たらずの過激派に襲われ殺されると言う不祥事を招いたのですから、政局の一大事。とにかく、事態収拾の手を早急に打たねばなりませんでした。
 事変はすぐ幕閣に伝えられ、老中たちが緊急招集されて協議にはいります。集まった老中は内藤紀伊守信親、松平和泉守朱全、脇坂中務少輔安宅、安藤対馬守信正の四人でした。その中で信正は奇想天外な発想と適切な措置によって緊急事態を解決に導いたのです。

 事変後、井伊邸に運びこまれた直弼の遺体には首が有りません。大名が首をとられたのは最大の恥辱であります。しかも、大老の死は江戸中に広がっておりました。この急変に、江戸城弁天堀わきの彦根邸では、江戸在勤の藩士二百五十名が慟哭と怒りに燃え、襲撃者を出した「水戸藩を討て」と奥女中までも女子長刀隊を編成する異様な空気につつまれ、内戦の開始は時間の問題になっておりました。
 緊急老中会議でも、打つ手がございません。この時自分の保身のみを考えるのであれば、傍観がもっとも良い方法でした。けれど信正は、事態収拾のためには、まず彦根藩の安泰をはかり、また水戸藩に対しても、その存亡にかかわるような制裁を加えないことが最も賢明な道である、と判断いたします。
 信正は「彦根藩邸に行く」と短く言います。居合わせた閣老は、まばたきして驚きます。
 
 彦根藩は騒然としておりました。血に染まった駕寵(かご)は、焼き捨てるために燃えている。畳ははがされ、ふすま、障子も破れて泥を残している。全くの戦闘準備の真っただ中であったのです。
 ところが突然の信正老中来訪の先触れに彦根藩士たちはとまどいを隠せません。
 御法どおり領地没収、家名断絶の示達かと予感が走ります。
「安藤を血祭りにあげろ」の気勢とともに、不安と絶望がじわじわとひろがってゆきました。
 そこへ、信正の行列が彦根藩邸前にとまります。安藤の公用人野々山藤五郎が大音声でこう叫びます。

神田香織 浪人をうながして
浪人 「え、俺が」と言う顔 しぶしぶ 

野々山藤五郎(永井)
「ご大老井伊掃部頭さまご家来に申し述べる。拙者主君、安藤対馬守信正儀、掃部頭さま負傷一件につき、即刻、お見舞いに参上致し申した。掃部頭さまにこの件、早速お伝えのほど、願い奉りたい。主君は面談のうえ、お見舞いを申しあぐる所存にござりまする」
神田香織「もう、いいわよ。ご苦労さん」

 なんと、直弼が生きている、とするのです。信正が招じいれられるのは四半刻(十五分)ほどのちになります。邸内ではその間に、藩土みずからの手による武装解除と、いくさ支度の片づけが行われていたのでした。彦根藩士は、藩邸にまで乗りこんできた信正の気追に圧倒されておりました。武装解除はだれの命令でもなく、藩士の自発的行為により行われたのでございます。
 信正はその藩邸のなかを静かにすすみます。一礼して直弼の遺体のまえに着座すると声を張りあげて見舞いの言葉を述べはじめます。いつしか邸内にはすすり泣きの声がゆっくりとひろがりはじめておりました。

浪人は話を聞いているうちに感極まって泣き出す
神田香織 それを慰めて

 信正は首のない遺体に、ケガの様子を尋ね、今後の養生を願っております。彦根藩士は部屋ひとつへだてたところに平(ひれ)伏し、泣いて、この言葉を聞いていたのです。
 この異例の訪間と、死者を生者として告げられた見舞いの言葉に感動して動こうとはいたしません。信正にとってはこれが初仕事でした。信正は大きく息を吐く。すべて冶安維持のためでありました。
 大老直弼の横死を秘し、暴徒の襲撃に遭って負傷したように装い、その任にたえないことを理由に届け、家督を子の愛麿(直憲)にみとめる内容と、喪は後日、適当な時期を選んで発表することを重臣たちに伝えます。この日のうちに信正の内示により、二十一名の死傷者は直弼の名義で届け出たのでした。
 後、彦根藩士は、主君の血にしみ込む事件現場の土を削り取り、四斗樽四杯につめて国元に持ち運ぶのであります。事件現場を他人に踏ませることすら、彦根藩士には耐えられなかったのでしょう。

 幕府はもはや、諸大名を制して天下に号令する力を失いつつありました。信正の独断かつ電光石火の行動は争乱をおさえ、乱気流化の日本の平和維持を成し遂げたのです。もし水戸藩と彦根藩の争いにより国内が戦争状態に陥ったら、諸外国にとっては日本を植民地化する絶好のチャンスだったのですから、極端なことを申しますと、ここでも今日の日本の形はかなり違っていたかもしれません。
 この後信正は井伊に罷免されていた久世大和守を首班に返り咲かせ、自分は副総理格新内閣を組閣してゆきます。
”あんどん(あんどう)を消してしまえば夜明けなり〃と、その手腕は井伊以上と過激派浪士の憎しみを買い、、テロリストにねらわれた時の人となってゆくのです。そして二年後の文久二年(一八六二)正月十五日、水戸浪士に坂下門外で要撃されて重傷を負う、いわゆる坂下門外の変を迎えるのでございます。
「桜田門外の変」の一席でした。

神田香織「こういうわけだったのよ、そう言えば、あなたも安藤公のことを「あんどん」なんていってたんでしょう、あんたは『あんどんを消してしまえば夜明けなり』と思って来たんでしょうけど
本当は、『あんどんを消してしまったら、真っ暗闇』に日本はなちゃうところだったのよ、解った。
のどが渇いたわね、ちょいとお茶を こちらのご浪人さんのぶんもね、そうそう、〜(有名なお菓子)ももっておいで」
お茶と茶菓子が出て浪人に「おいしい」などの短い会話があり
浪人「確かに、国内においては非常に活躍されたことは解りましたが、諸外国にわが日の本の国を売り渡そうとした極悪人ではないのか、いやないんでしょうか?」
神田香織「そうそう、人にものを尋ねるときはそういうふうにね。まあ、当時のあんた達には理解しろったって無理なことかもしれないわね。なんでも刀で片をつけようとする人たちが多かったんですものね。でもね、もうそういう時代じゃなくなっていたんですよ。戦争で被害を受けるのはいつでも女や子ども。安藤公は話し合いでことを解決しようとしたの、つまり外交ね。あんたの子孫がいま、こうして平和に暮らしているのも、もちろんこの後いろいろあるんだけれど安藤公の考えや人柄のおかげだった、と私は考えているの。
 お菓子のお変わりがほしいの?じゃあ、食べながらもう少し私の話をお聞きなさい。」

音楽 ブリッジ
照明 やや暗く

安藤対馬守の外交手腕と成果
講談「安藤の外交手腕」約8分

 こうして図らずも入閣後わずか2ヶ月に満たない信正は実力者としてその後の政局の中心人物となるのです。
国内はますます乱れ、京都では映画や講談でおなじみの新撰組と勤王の志士の血で血を洗う戦闘が起こります。 
安藤公は井伊直弼の後を引き受け、国内の緊張を押さえる目的で朝廷と幕府の融和をはかるため、将軍家茂の御台所に孝明天皇の妹和宮親子内親王の降嫁、いわゆる公武合体を実現させました。後の戊辰戦争で江戸城が無血開城できたのは、公武合体のお陰といわれておりますが、和宮降嫁に最も力を尽くした信正は坂下門事件後の傷の療養のため文久二年二月十一日の行われた和宮と家茂の婚礼に参加する事ができませんでした。
さて、いよいよ彼の外交手腕のお話です。
安政六年(一八五九)の初め、諸外国は幕府に対し、新潟港は港の入り口が浅く不適当であるかあら、これに代わる港を開くことを要求致します。が、幕府としてはまだ、その選定にはいたっておりませんでした。こうした状況下、条約で取り決めた通り京都に近い大阪や兵庫(いまの神戸港)を開港すれば諸藩の尊皇攘夷派浪士が決起し、騒動が全国に波及することはわかりきっております。
 国内の治安は乱れ、外人の殺傷が頻発し、国内は収拾のつかない混乱に陥ってしまいます。外交は困難となり、幕府の台所は巨額の賠償金の支出で悩み、朝廷と幕府が離反することは必至の状態でありました。
「このままでは、いずれ外国と戦争になってします。そうなれば、我が国は清国のにのまい・・・」
信正公は深刻に考えます。そして国内の攘夷派を押さえるためにもう少し時間が必要だと、ヨーロッパへ使節を送り開港の延期を諸外国に打診します。
 信正は、各国公使と事態収拾策について会見、同意を求めました。
 イギリス全権オールコックとフランス公使は、「日本から修好諸国に特使を派遺し、直接要請することによって、初めて道も開ける」と勧告、ヨーロッパへの派遣についての協力を約束してくれました。当時、幕閣でもこの時節柄、尊攘派を、さらに挑発する」と、反論もありましたが、信正はこれらをおさえて決意致します。
そして、その年の十二月二十二日に竹内保徳、杉原石見、目付け京極高朗を全権公使にイギリスの船オーディン号で品川から出港します。遺欧使節の使命は江戸・大阪の両都および新潟・兵庫の開港延期、樺太の日露境界の決定という具体的な案件にありました。 
ロシアの樺太の国境線談判も信正の先見の明が遺憾なく発揮されたことで知られております。

 嘉永六年(一八五三)の日露和親条約は「千島はエトロフ島まで日本の領土と認め、樺太は二国の共有とする」の条項に基づき、信正は樺太国境は北緯五〇度として、一歩も譲ることなくロシアと交渉することを命じておりました。会談でロシア全権は、樺太全島をロシア領と主張いたします。交渉過程で北緯四八度線にして改定したらと譲歩してきましたが、幕府使節団は「老中信正の厳令であり、いずれ両国で樺太の実地調査の上で決めることとし、それまでは日露両国民の雑居地にする」との暫定的な覚書に調印いたします。
 
 文久二年、使節団が帰国した時は、すでに老中信正は辞任しておりました。翌三年八月にロシアは約束通り、榛太国境査定委員を派遣してきましたが、日本側は国内が尊皇と攘夷二派に分かれた紛争中のため、遠隔の樺太国境間題までは手が届きません。いつしか立ち消えとなり、ロシアの侵略にまかせながら、事実上樺太全島を占領されてしまったのでした。
 信正の努力が水泡に帰してしまいました。
  もしあの時に信正が在職中であったならば今日の北方領土返還問題は、生じていなかったのです。

この年の正月十五日、使節団一行を乗せたイギリス船が香港を出港し、シンガポールに向かってマラッカ海峡をひた走りに南下していた半月後の登城の途中、信正は坂下門外で攘夷派狼士に襲撃されてしまうのでした。
 負傷の床にあった信正に傷の治療に専念する暇はございませんでした。使節派遣後も各国公使と折衝を持っておりましたが各公使とも開港延期には気乗り薄だったのです。だが、幕府にとって、延期は絶対条件です。この間、熱情をこめた信正の心労は筆舌に尽くせません。三月二十六日負傷をおして再び登城、二十七日はアメリカ側、二十八日はイギリス側と応接。そして四月十一日に罷免され、溜間詰格になってしまったにもかかわらず、全責任を持って交渉に力を注ぎます。
ヨーロッパの関係諸国へ派遺した竹内使節団は、フランスを回り、イギリスで交渉しましたが厚い壁に突き当たって、どうしても日本の希望通りには運びません。そこで、信正は外国係の通訳の森山多吉郎を代理として、イギリス公使のオールコックを再三再四にわたり公使館に訪ねさせ、イギリス本国での交渉がスムーズにいくようにあっせんを依頼したしました
 負傷も治って起きられるようになると、オールコックを屋敷に招き、赤く皿のにじんだ包帯姿で頼み込みます。
 オールコックは信正の、真情と熱意に打たれて感動、固く手を握りあって誓ってくれるのでした。
「わたくしが本国に帰って、直接、外務大臣に日本の実情を伝えて、どうしても延期しなければならないことを知ってもらい、安藤さんの希望のように運ぶよう骨を折りましよう」と、本国へ帰り、政府と協議、要請するのでした。その結果、英国が先鞭(べん)をつけ、英国外相ラッセルと幕府使節竹内の間で、開港延期の「ロンドン覚書」に調印したのでありました。 

尊攘派の浪人は欧米の機嫌をとる軟弱外交と安藤公のことをあざけりましたがこんな話が残っております。
 フランス代理公使ドウ・ベルクールが使用人傷害事件の際、怒鳴り込んできた時、安藤対馬守に「その程度の事で、戦をされようといわれるなら、どうぞ、戦を仕掛けてきて下さい。日本の国とても、フランス国の軍艦二、三隻に敗退することはないでしょう。いつでもお相手仕りましょう」と言われて、すごすご引き下がっています。
 ただ外国の機嫌をとっていたのではない証で、外国に対して「NO」と言ったのは、石原慎太郎さんが最初ではなかったわけです。
信正が最も親交の厚かった外交官はアメリカ大使ハリスとイギリス公使オールコックでした。万延元年十二月に起きた攘夷派によるヒュウスケン暗殺事件で信正は
「むしろ老中を殺し、将軍を殺して、内乱をかもすとも、外国人を殺害して外難を買うことを止めよ」
といい、外交努力に対する周囲の全くの無理解に怒りを表しています。
 この事件でフランスや他の国は幕府に治安を維持する能力なしとみて横浜に引き上げ軍隊を上陸させます。ハリスは、信頼していたヒュースケンを日本人に殺されたにもかかわらず、信正の誠実さに答えて江戸に留まりました。やがて帰国命令によりハリスは日本を去りますが、そのとき信正は
「親愛なるあなたの日本における功績に対し、なにをもって報いることができましょうか。これに足るものはただ日本一の富士山の美しさを贈るのみであります。」
といって別れを惜しんだ話はあまりに有名です。
 また、信正遭難の報に接したオールコックは
「われわれが諭じ合った閣老のうちで、彼は締結した条約から必然的に起こってくる問題を、公平かつ妥当に見ようとする気持ちがもっとも強かった。その立場の許す限り、日本と諸外国との関係を、たとえ完全に満足のゆくようでなくとも、好意的な基礎の上に置こうと、もっとも強く望んでいた人物である」と語っております。
しゅく国、国を縮めることを徳川幕府の国是としたような鎖国時代に、へき国、国をひらく政策を遂行した信正の外交手腕は、国内よりむしろ諸外国に認められたと言っても過言ではありません。
 大黒柱であった井伊が暗殺され、安藤が失脚し、幕府の屋台は崩れてゆきます。過激攘夷派の黒い旋風と倒幕の風潮にニッチもサッチも動きがとれなくなってしまうのです。福地源一郎と言う人は「幕府の歴史に於いて、もっとも多事を極め、幕府衰亡の運命は、実に文久二年、この一年に決したるの年なり」(懐往事談)と書物の中で説いております。
 「安藤の外交手腕」の一席でした。

明かり戻って

神田香織「文字通り日本丸と言う船を舵とりしてたわけ」
浪人「拙者、目からうろこが出た思いでござる、これより国元に帰って皆に安藤公の話をお伝えしたい」
神田香織 浪人を見送って「まあ、当時はあのような青年がうようよしていたわけです。
ここで安藤公の人柄をしのばせるエピソードをお聞かせいたします。」

 講談【安藤の駒結び】【平城の鶴】(信正の死刑廃止諭)約10分 

 「桜田門外の変」にあたって、入閣後わずか2ヶ月に満たないにもかかわらず、奇想天外な発想と適切な措置によって緊急事態を解決に導いた信正は、すぐに実力者としてその後の政局になくてはならない中心人物となってゆきます。
 井伊大老の後を受け、内は公武の合体を図り、外は外交の難衝に当るかたがた、罪人に対しては少年時代に心に萌した死刑廃止の志をもって対処してゆくのです。 
 井伊直踊が引き起こした安政の大獄は、その残酷苛烈さにおいて、前代未聞、処断された者は、切腹一、死罪六、獄門一、そして遠島、追放、所払、押込、手鎖など七十名以上にのぼります。越前の橘本左内、長州の吉田松陰を殺したことは、直弱最大の罪とされてあり、この大獄によって天下の人心は激発、志士の怨念を買ったのでございます。信正が入閣する前年に起きた安政の大獄、多くの志士の刑死を送るにいたった一つの信念は、輪番加判の印形を、絶対に死刑囚の判決に下すまいということでありました。
 そして死刑廃止の信念を貫き、文久二年(一八六二)四月、加判之列御免までの二年間、死刑囚裁決に加判を与えなることはございませんでした。“こま結びに埋もれる石印”の伝説を、江戸城中から、牢屋敷に打首を憂える人々の間に流布したのございました。
 
 それではここで死刑廃止の志が芽生えるきっかけとなった少年時代の逸話、題して「平城の鶴」をご紹介いたします。
信正が十歳の頃のことでございます。
藩校施政堂の教授復所の講義が始まっておりました。
「むかしの天津罪。国津罪というものは、他人に重い傷を与えた者でも、祓除(はらいよけ)の法で、罪があがなわれました。律令が定まるまでになると、罪は法によって処刑されることになりました」
このとき信正は、きりっとした眉をあげて質問をいたします。
「先生、鶴を傷つけたものの罰は、どうでしたか」
 その頃、近領の農夫が、鶴を傷つけた罪で、捕えられていることを知っていた信正は、それを救けてやりたかったのです。
 復所は、この賢い少年を、たのもしげに見やって申しました。
「昔は人間が鳥を捕らえても、もちろん鶴も含めてですが、それが神の使いといわれるものでない限り、どの鳥を捕らえても傷つけても別に罪にはなりませんでした。なんと言っても鳥や獣はそのころの人間の大切な生活の糧でしたから」

「それが今日の鷹狩の鶴ですが、大名方は、自由に猟し、庶民の猟は死罪となっているのは、どうしたわけですか」
「鎌倉時代の頃から、武家の間には、身勝手なきまりが多くなりました。罪だとがだといって、家来の過失にたいして切り捨てるなどということも、武士のわがままな行いのように考えられます。」
「では、鶴を傷つけた者を罪にすることも武士の身勝手な行いなのですね」
 復所は、ここではたと困りました。鶴を捕えたり、傷つげ殺す者は、現実に行われている法律で厳罰に処せられているからです。
「鶴をほんとうに傷つけたか、あやまって傷つけたか、それを見きわめて、寛大の処置をとるべきだと存じます」
「それは、そうしたいものじゃ」(それから間もなく鶴を傷つけた者の罪はゆるされたのでした。)
「さて……」
と、信正はまた尋ねつづけるのでした、
「この頃、辻ぎり、ためしぎりが、江戸で流行いたすとのこと、先生は、これについて、どうお考えでしょう」
「暴挙と考えます。人の命を絶つことについては、かりそめにも、聖人君子の行うべきことではござりません」
「上のおきてで、死罪となった場合、それにたずさわる者の処断は、どうしたらよいとお思いでしょう」
 この時、 復所は、少年信正が、やがて父祖の官職をついで奉行、老中となった未来を考えているのだと気づいて、おごそかに申しました。
「死罪を定める高官が、盲判によって、その処罰を決定することは危険この上ないことでございましょう、過去の裁判によって、生命を奪い去られた幾百人の死罪人を、もし現在の裁判によって再審しまするならば、死罪に行わなくともよいものもありましょう、死罪が、野蛮な社会に多くて、美しい社会に絶無となるのが、時代の進化の筋道と心得ます」
 信正は、じっと頭を垂れて、何か思索しているようでありました。やがて、頭をあげると、つよい語気で
「先生!聞かしてください。罪と罰との基準そのものが、、変化して行くものであるということになりますと、時代の裁判に決をあたえる人は、後代にすれば、人殺しの罪人ということになりましょう」
「さようでございます。裁く者が全能でない人間であることを思います場合、人間が人間の生命を奪うようなことは、めったにはできないことでございましょう」
「ありがとう、先生、わたしは、もっと、そのことを考えてみたいと思います。幸い近く江戸に出られるので、いま幕府の定めについても究めてみたいと思います。」と明確に語ったと申します。

 さて、話は戻りますが、信正は普通木印を石印とし、印に彫刻があって、これを入れる袋の紐は、この彫刻にくい込むように結ばれてありました。内政外交の重要書類には、いわゆる花押を用いましたが、死罪人の刑執行を認める印判は、とくに石印を用いるのが加判の定としておりました。彼の印形入は、登城に先だって、その紐が、こま結びに、幾つも幾つも結び重ねられて、決して、短時間で解けることはなかったと言われております。
 お使いの坊主衆が、御加判を願いに来ますと「印形をもて」と信正から、御坊主に命が下ります。紐解に汗みどろになっているうちに「どーんどーん」と御城の太鼓が鳴ります。
“御下り”というわけで、今日も死刑囚の生命はのびることになるのです。紐を解く時間は、書類の出る関係上だいたい四半刻、その間に、加判をいただけねば一週間のびて、他の人の加判にかわります。
ですから、坊主衆は、どうしても、時間ぎれにならないうちに解かねばならぬと苦心し、その方法が研究されてゆきます。一方、信正の家来は、「解かれてたまるか」とますます結び方に工夫をこらしたと申します。
この間に発明されたのが“千鳥むすび”“戦国緒び”という江戸時代の芸術的な紐の緒び方でございます。今日、和服の仕立ての時など千鳥掛けという縫い方が用いられておりますが、これは千鳥むすびの名残とも言われております。
こうして、死刑囚の首は信正加判の御役中はつながるということになったのです。
彼の隠徳は多くの無実の死罪囚の生命を助けました。これを徳として、市井の侠客神田川六助という男は生命を助けられたお礼に、背に「安藤対馬守」という大文字の刺青をしたという話題が残っております。
、開国、穣夷に揺れ混乱きわまる時代、果してどれほど犯罪者に対して責任があるか、その犯罪の正邪の源をきわめられるであろうかそれが決定しかねるので、信正の印形入は堅く結ばれていたのでした。
 
安藤の駒結びの一席。

音楽 ブリッジ
 
「幕末の嵐の中で・老中安藤信正の活躍」(20分)
  講談「坂下門外の変」

講談【坂下門外の変】約10分

 文久二年正月十五日、この日は藪入りの日であり厳寒下に晴天、江戸の町々には門松が立てられ、市中は屠蘇の酔もさめない新玉の年の始めを楽しむ人々で満ちていたと申します。
 毎月十五日は幕府の慣例で江戸在府の大名らが将軍家茂に拝謁する日であります。とりわけ、この正月十五日は年の初めということで坂下門附近は各大名の登城でごったがえしておりました。
 坂下門は旧江戸城の桔梗門と桜田門との中央にあって、西丸御殿に通じており、現在は二重橋の北方に在って宮内府の入口になっております。   
 信正は服紗小袖、半袖上下の礼服に身を装い、西丸、今の二重橋の太鼓櫓で御坊主が打ち出す五つ、午前八時の太鼓を合図に登城します。坂下門と下馬を距てて目と鼻の近い距離で一町とは離れておりません。
その日信正の駕籠をを固めていたのは藩士五十名、特に屈強の者を近くに配しておりました。そして今まさに、信正を亡き者にしようと様子を伺う攘夷派は水戸の平山兵介、小田彦三郎、黒沢五郎、高畠総次郎、越後の河本杜太郎、下総の河野顕三の六名。
  
 行列はこの雑踏を縫うようにして足を速めた。箱提灯持ちを先頭に、真っ直ぐ坂下門を目指していた。
と、その時、訴状を頭上高く掲げ、ッッッッと信正の駕篭に駆げ寄ってくるものがあった。
 水戸の平山兵介であった。
 いち早くそれに気づいたのは、御徒頭の野田信八だった。
信正は登城の途中−−−、しかも今日は将軍に年頭のあいさつを申し上げる大切な日、毛ほどの間違いがあってはならない。
ことを未然に処理しようと、信八は一歩二歩と平山に近づいた。平山も早足で近づいてくる。二人の距離が急速に狭まった。と、信八の顔色が変わった。
 平山が手にした書状の表書きに書かれていたのは、「訴状」という二文字でなく、「斬奸趣意書」という五つの文字だったのだ。
平山は「斬奸趣意書」を信八に投げつげると、ガッと懐に手を突っ込み、ピストルを取り出した。
 信八は一瞬、遅れをとった。平山の右手人さし指がピストルの引き金にかかった。
 もちろんピストルの筒先は、正確に信正の駕篭に向けられた。平山の顔に不敵な笑いが浮かんだ。呼吸を整えようとする余裕もあった。
 「信正、覚悟」
そう叫ぶと、平山は引き金にかげた指に力を込めた。大きな爆発音とともに、銃弾が筒先を飛ぴ出した。
なぜか、平山の目には、その銃弾が見えた。時間の流れが緩慢になり、じりじりとカタッムリの歩みのようにしかすすまない。
 銃弾はゆっくりと回転しながら、駕篭に向かって真っ直ぐに飛んでいく。
 「はははっ−‐I」
 平山は大きな声で笑いたくなった。「やった、俺はやったのだ」駕篭のなかから転げ落ちる信正の姿が、もうすでに平山には見えていた。
 「時代が動く」
 しかし、次の瞬間、平山は信じられないものを見た。得体の知れない黒い影が、銃弾の前に飛ぴ出し、その行く手に大きく立ちはだかったのだ。
 「何っ−−−」
 黒い影には目がついていた。顔もあった。血走った二つの目はギョッと見開かれ、ロも大きく開かれていた。
 「どけ、どくんだ」
黒い影は、信正の駕篭を固めていた大小姓の松本錬次郎のそれだった。
咄嵯の判断、錬次郎は銃弾に向かって突進したのだ。
銃弾は錬次郎の右足花当たり、血しぶきが飛んだ。
錬次郎の体がもんどりうった。
 あたりが騒然となった。信正の駕篭近くに駆け寄り、抜刀し、敵に備えるもの−−−、平山を取り押さえようと殺到するもの・・。
平山はピストルを捨て、刀を抜き放つと、信正の駕篭に向かって猛然と走りだした。錬次郎は必死の形相で体を起こし、膝立ちになった。
「どりや−」
平山が鋭い声を発した。錬次郎は刀の把に手をかけ、疾風となって突進してくる平山を正面に見据えた。平山の切っ先が目と鼻の先に迫った。
「あっ」
 近くにいた陸尺(駕篭かつぎ)たちが目を閉した。錬次郎の分厚い胸板に、平山の太刀が突き刺さる−−−、陸尺たちは皆、そう思った。
しかし、それは違った。地面すれすれのところまでぐっと身をかがめた、と思った、その瞬間、錬次郎は目にもとまらぬ早さで刀を抜き放ち、平山の左膝を鋭く切り払った。
 あたりに鮮血が飛ぴ散った。
 この一撃で、さすがの平山もその場にどっと倒れ伏す−−−かにみえた。しかし、平山はぐっと踏ん張った。痛みに顔をゆがめながらも、大上段に太刀を振りかぶると、渾身のカを込め、それを錬次郎の脳天めがけ、ふりおろした。
その太刀を錬次郎は身をよじって、かろうじて避けると、平山の足にむんずとしがみついた。
「やめろ、離せ、離せ」
 これには平山もたじろいだ。しかし、ひるむわけにはいかない。平山は必死になって錬次郎を振りほどこうとする。
が、錬次郎は手を離さない。その間、御徒頭の野田信八は、浮足立ってしまった陸尺たちを叱咤し、駕篭を坂下門の中へ導こうとするが、うまくいかない。ある陸尺は悲鳴を上げ、逃げ出そうとするし、別の陸尺は腰が抜げ、力が入らない。
この時、信正の篤篭に殺到したのが、水戸の高畠総次郎だった。警護役の国府田千太郎、富田弥三郎の鋭い刃をかいくぐりざま、弥三郎の頭に一撃を食らわせると、高畠は一本の矢と化し、信正の駕篭目指し、一目散に突進した。
「覚悟っ」
鋭い気合の声があたりに響いた。この矢を見事に打ち払ったのが、御徒目付の伊藤東右衛門、大小姓の端山宮治、浅井孫左衛門の三人だった。
「カキーン」
刃と刃が交錯する激しい火花とともに、東右衛門の太刀が高畠の太刀を払い上げた。と、同時に三方から高畠を取り囲み、首尾よく討ち取った。しかし、これで危機が去ったわけではなかった。
ようやくのことで錬次郎をふりほどいた平山は、いままた信正の駕篭に迫ろうとしていた。平山は太刀を激しく振り回し、御太刀番の小薬平次郎の頭に斬りつげ、とって返す刀で大小姓の村上秀二を突き、番目付の斉藤勇之助の頭にも一撃を見舞い、長さ二十センチメートルほどの傷を負わせ、いよいよ信正の駕篭に追いすがると、ここぞとぱかりに篤篭の背後から太刀を突き刺した。
「殿−−」
御小姓たちの絶叫。平山の一撃は駕篭の背板を貫き、信正の背に達した。「ウッ」篤篭のなかから小さなうめき声が間こえた。
「よし」
平山の顔に、また不敵が笑いが浮かんだ。
しかし、傷は深手ではなかった。そのことは当の平山にも切っ先の手応えで、そうと知れた。平山は駕篭からググッと刀を引き抜くと、刀を逆手に持ちかえた。
駕篭のなかの信正はどうしたのだろう。駕篭を飛ぴ出し、逃れる様子もない。警護のものたちを信じ、悠然と構えているのだろうか−−−。それとも、もうすでに身命を神仏に預けてしまったのだろうか。
 平山が両の腕に力を込め、刀をふりおろそうとした、まさにその時、いく人もの藩土が平山に殺到した。捨て身の体当たりだった。
そして、漸くにして平山を討ち取った。
しかし、襲撃はまだ続いた。間隙をぬって、水戸の小田彦三郎が信正の駕篭に襲いかかってきた。
御徒士の和田銀太郎、伊丹新太郎、吉田貞之進、大小姓の竹尾文蔵、村上幸之進、小山順太郎が小田に切りかかるが、小田の執念を含んだ切っ先は鋭く、討ち取ることがてきない。
この時、「おれが相手だ」と、ググッと一歩前にすすみ出たのは、大目付の山田彦八だった。
 彦八は小田の鋭い切っ先をカキーン、カキーンと数度にわたって凌ぎ、左手に傷を負ったが、小田の息が乱れたほんのわずかの隙をつき、今度はこちらの出番だとぱかり、猛然と切りかかった。
これにはさすがの小田もたじろぎ、一歩二歩と後退−−−。ついには、彦八の上段からふりおろされたとどめのひと太刀に討ち果たされた。
しかし、いとまは、まだ与えられなかった。
 越後の河本杜太郎が、信正を乗せた駕篭が進んでいく坂下門のほうに先回りし、迎え撃ちに出たのだ。これには御徒士の林録次郎、御徒頭取の林万五郎が応じた。
 河本と録次郎は幾度となく切り結ぴ、互いに一歩も引かぬ様子。二人の激しい息づかいは、もうもうと立ちのぽる真っ自な湯気で知れる。
先に息の乱れを生したのは、河本のほうだった。
 言葉にならない断末魔の声とともに、河本の体が地面に崩れた。駕篭が坂下門の近くまでたどり着くと、信正は足袋裸足のまま、駕篭から降り立ち、
 「皆のもの、油断するな」
と声をかげると、野田信八らに守られ、坂下門に向かって駆け出した。この時、信正の背中は一面、血潮で真っ赤に染まっていた。

 坂下門外の変は、桜田事変の二の舞で、桜田事変のあと井伊大老の裏門に「水戸まで生首返上」と落書きし、坂下門に近い安藤邸の表門には「対島守首当分預け置」と、残された落書で予告してから一年十カ月後の襲撃でした。
    坂下の門に散りしは桜田の 花の吹雪の名残りなりけん
    桜田の雪の名残や坂下の 松の嵐と吹きかわりけん

世は命よりもメンツを大切にした侍時代。桜田門に加えての坂下門。明日を知らぬ幕府はどんぶりをひっくり返したような大騒動となります。
 かくて信正は、この事変の傷が直り次第復帰の意志でありましたが「天下の人心に動揺あり」とし、押し被さってくる薩・長・土の謀累と建議によって、同年四月に辞職に追い込まれるに至ります。人は、自分の終末を先取りして、深い絶望に落ち込み、その反動で今の地位にかじりついて何としてでも、離れたがらないタイプが多いといいますが、彼は自分の仲間と思っている人々の迷惑を考え、いさぎよく職を辞します。
 しかし責任感坂下門で斬られた後、気の弱い人なら気力を失い寝込んでしまって仕事どころではないところ、剛胆な信正は、負傷を包帯で包み外国公使と面接、一層公使たちに親任され敬服され、幕末における外交官としては第一人者といわれます。
「安堵したあとの久世つがきにかかり」
 幕府は大黒柱を失ってしまいました、あとに人材乏しく老中の久世大和守ではとても天下の政治を執ってゆく力量はございません。幕威いよいよ衰えて無政府状態。ついに越前候の松平春嶽が世論にのぼり、薩長が公武の間を斡旋するようになるのです。これが坂下門事件の主産物であり、弱体化した幕府は時の流れに抗せずして大政奉還の道をひたはしりに歩んだのでございました。
「坂下門外の変」の一席でした。

 坂下門外の変で受けた傷も治り、再び信正は江戸城に出勤するのですが、休養中に変わってしまった幕閣内の空気を知り、情勢が既に自分が志す方向ではなくなった事をさとり、四月十一日老中職を辞任いたします。
 このときから信正の運命は徐々に暗転してゆくのでした。上洛した薩摩の島津久光は信正の老中罷免と越前の松平春嶽の大老職任用を画策しておりましたし、信正が老中辞任後、新たに設けられた政事総裁の職に松平春嶽が就任しますと、老中時代の信正が取り組んできた施策はことごとく否定されていったのです。
 さらに信正は隠居謹慎を申しつけられ、信民に家督を譲りますが、十一月には領地二万石が召し上げられ永蟄居が申し渡されます。
「勤役中不正の筋有り」という処罰の理由もまったく根拠のないものでした。
 大塚の死も屋敷に移った信正が永蟄居を免ぜられたのは慶応二年(一八六六)十一月のことでした。その間家督をついだ信民は文久三年に没し、信勇が十二代を相続しました。
 散りはてて面影かわる山桜 きのうの雲はきょうの白雪

 慶応四年三月、江戸を離れて信正は領地磐城平へ帰城するのですが、やがてそこで迎えるのは戊辰戦争の混乱でした。


  音楽「じゃんがら」が遠くの方から聞こえてくる。
  徐々に「じゃんがら」が高まり会場いっぱいになる

  下手より踊り手(シルエット)が登場
この間に神田香織衣装変え(3分)
官軍の行進曲に追われるように 踊りながら上手に消える
  官軍の行進曲が徐々に高まりじゃんがらと入れ替わる。
SE 遠くに大砲の音 戦闘場面

8.講談「西軍平潟上陸〜平城炎上〜」
 講談「いわきの戊辰戦争」

 慶応四年六月一日、薩摩、佐土原、大村の三藩の西軍の兵約千名を率いて、江戸品川沖を発した長州藩士木梨精一郎、大村藩士渡辺精左衛門の両参謀は、十六日に平潟港に上陸しました。磐城三藩はすでに仙台藩を盟主とする奥羽越列藩同盟に加わっており、仙台藩兵、旧幕府軍が磐城に滞陣しておりました。
 平藩は恭順派の儒者真木光と抗戦派の家老上坂助太夫の二派にわかれておりましたが、その最終決定は信正の意見でした。かつて幕閣にあって日本の行く手を担っていた我が身をかえりみて、ただ手をこまねいて薩長の意に服することは断じて承伏しがたいものがあったのです。
 この日が磐城における戊辰戦争の幕開けでした。
以後十七日の関田の戦い、十八日新田山の戦い、二十三日植田八幡山の戦いと、東西両軍の攻防は続き、二十八日泉落城、翌二十九日は湯長屋城も落ちました。二十九日には小名浜でも二つ橋の戦いという激しい戦が行われました。その後、戦は一進一退を繰り返しておりましたが、武器、兵力ともに新手を送り込む西軍側に利があり、七月十三日の平城最後の日へと時局は移っていくのでした。

 時は明治元年七月十三日 この日は濃霧のため前方が見えない日でありました。西軍は濃霧に乗じて湯長谷、湯本を発し、一部をもって薄磯方面より、残余をもって中の作、七本松方面より平城を総攻撃したのです。湯本街道より柳河、因州、備前、大村の兵が殺到したのは朝の八時頃であった。平藩士三田八弥の一隊は防戦につとめ、或は斃れ或は傷ついた。霧がようやく晴れると、西軍は城下に満ちていた。平城兵はこれを見て追手門、三階櫓、八つ棟櫓の砲座より砲撃、追手門や他の門から出撃した。西軍はそれに屈せず不明門(現在の松月堂附近)を越えて域内に入った。柳河、因州、備前、佐土原の諸兵は、才槌門に肉薄し、他の一隊は城西の六間門めがけて大小砲を発して攻撃したので、城兵は苦戦を続けた。
 ときに、疾風、大雷鳴が起こって閃光雷鳴は天地を震動した。城兵は能く防いだが、衆寡敵せず、諸門は敗れて砲弾は尽きた。
SE 遠くに大砲の音 戦闘場面

総長上坂助太夫は薙刀を振って指揮し、裏門より出て田町に進撃し一時は西軍を門外に退却せしめた。西軍はさらに砲撃を加え、砲弾は城中において破裂した。三階櫓は内濠の中に吃立していたので、西軍はこれを目標に砲撃した。
 このころに至って、鐘楼、稲荷山、揚土の丘には死傷者が増加していた。西軍の一部は、六間門より猛烈に攻撃した。六間門は中村藩の相馬将監が指揮していたが、西軍は藩校佑賢堂の門外に野砲を置いて、六間門を隔たること三町余、この門を破砕しようとした。中村参政、神谷、桑原の平藩士が来援の防戦につとめた。
 日の没するころとなって、城の内外寂莫として声なく夜色凄然となった。城内に残る者少なく米沢藩の応援も期待できなくなった。糧食は四、五日分、砲弾は二〇余発、小銃弾は二〇〇〇発のみとなった。
 このとき、中村藩の相馬将監は、一同を激励して曰く「この城の一敗をもって落胆すべきではない、奥羽は広いのであるから、相馬境の要所に拠って各藩の兵を連合して決戦すれば、平城の回復も期して待っことができる。故に今夜、城を開いて次の要所に就くべきである」と、城中の諸士はこの説に賛成した。
 上坂総長は意を決して諸士とともに涙をふるって自ら八棟櫓、三階櫓、弓櫓や米倉八煉に火を放って一同は追手門より外張門(現在の磐女附近)に出て、桜町より胡摩沢を過ぎて赤井に走り赤井嶽に登って燃えつつある平城を涙のうちに眺めて下永井に着いた。平城からは炎々と火があがった。折しもお盆、市民は墓参の花をすてて遁れたという。慶長七年(一六〇二)鳥居忠政が築いてから二六〇余年を経て、平城は落城したのである。
 
官軍の行進曲が大砲の音など混じっていわき城炎上とともに
徐々に高まる。
舞台神田をシルエットにして
今度は「じゃんがら」の音楽が官軍の行進曲と入れ替わっていく。
それにあわせて踊り手手が舞台に登場して
鐘、太鼓を激しく打ちならし激しく踊る
照明もこれに会わせて激しく変化していく


エピローグ
音楽 堀内孝雄「愛しき日々」
スライド
 平藩の攻防の激しさは、戊辰戦争史上有数のものであったと言われております。西軍の大軍を半月も釘付けにした東軍の戦いぶりは総長上坂助太夫をはじめとする平藩士の勇敢な抵抗によるものでした。
 その後仙台まで逃れた信正一行は、城下片平町の石川大和の屋敷に入り、平藩の仮藩邸としました。信正は既に自らの運命を達観し、何事にも動ずる風はございませんでした。

 「旅人の歩みもしばしたゆむらん 村雨そそぐ花の萩原」
 「しばしとて雨宿りせんかいもなく 心もぬるる山毛欅の下かげ」
仙台への道すがら雨に降られ川前で詠んだ歌に、信正の当時の心境を伺い知ることが出来ます。地元の人々はこのブナを「安藤ブナ」と名づけ大切に保存しておりましたが、昭和三十五年頃、枯れ落ちたため、その跡に歌碑を建て今日に至っております。

 九月に入って仙台藩から降伏の内談があり信正は黙したままそのすすめに従います。そして二十四日、謝罪状を提出し、泉藩、湯長谷藩とともに、平藩は正式に降伏したのでした。
 明治に入り、他の幕臣が競って思い出を綴り弁明を続ける中で、信正はただ一人黙して何も語らなかったと言われております。銃声に始まり銃声に終わった信正の一生、成すべき事はすべて終わったという思いに満ちていたのかもしれません。その後、夫人と共に余生を東京で過ごし、明治四年十月八日その波乱に満ちた一生を終えました。五三才、法号は謙徳院殿秀誉松厳鶴翁大居士。いまは・・・・に静かに眠っております。

 かつて戦国武将の山中鹿之助は天に向かって「我に艱難辛苦を与えたまえ」と叫びました。かつて戦国武将の山中鹿之助は天に向かって「我に艱難辛苦を与えたまえ」と叫びました。
ときに織田信長のように大胆に決断し、ときに徳川家康の如く慎重に見極める、しかし、人の上に立つ人になくてはならないものがある、それは思いやりと愛情です。鶴をもいたわるやさしさです。
今年はくしくも対馬守生誕百八十年、先の見えない混沌とした現在の日本に今、最も求められているのは、信正公のように百年後を見据える先見の明と、命あるものに対する限りない愛情ではないでしょうか。死して姿は没しても 今、よみがえる信正公。対馬守、見参、見〜参!
「磐城平藩主安藤対馬守、見参」の一席、これをもって読み終わりでございます。

音楽 堀内孝雄「愛しき日々」高まって
緞帳 おりる