谷中村の幽霊 第一部正造の講談説法 |
|||
甲斐織純 作 第9稿2012年8月14日 | |||
パン わたくしがまだ、この世に生きておりました頃、わたくしが望んでいたものは、ほんのささやかな事でした。 それは、きれいな水、きれいな空気、そしてきれいで豊かな土。たったこれだけのものでした。 パン 突然この世に現れて、このようなことを申しますと、お前はいったい何者かと、ご不信を持たれるのも、ごもっとものことです。 パン おさっしのとおり、私はこの世のものではございません。百年前にこの世を去りながらも、いまだ成仏できずに、あの世とこの世との間をさまよっているものでございます。 世間では幽霊などと呼ばれております。 幽霊とお化けはどこが違うか、と申しますと、美男美女が幽霊になりまして、それ以外の方々は、お化けになるとむかしから言われております。 今日御集りの皆さま方は、いずれも立派な幽霊候補のようでございます。誠に御目出度いことです。 「幽霊は夜出るものではないか、なんでこんな早い時間からでいるのか」と、疑問を持つ方もいらっしゃるでしょう。 たしかにそのとおりでございます。私たち幽霊の業界でも、序列のようなものがありまして、たとえば番町皿屋敷のお菊先生、四谷のお岩先生など、あのような真打、大看板クラスになりますと、草木も眠る丑三つ時にでるものと決まっております。ですが、私のような前座見習いは早い時間に出るんです。 それにしてもはやすぎるのでは、言われますが、 私は臆病なので夜は暗くてこわいのです。どうかご勘弁を願います。 パン さて、わたくしは名を名乗るほどのものではありません。100年以上前、栃木県は谷中村に住んでいた百姓の一人にすぎません。 谷中村と言っても、地図を探しても今はもうありません。国策により滅亡させられた村です。 足尾鉱毒事件のいけにえとして、土地収用法の適用による強制執行で、住民は追い立てられ、村々の建物はことごとく破壊され、450戸2700人の村は滅ぼされ、川水に溶け込んだ毒物を沈殿させるための貯水池にされてしまったのです。 先祖代々受けついた土地を離れるということは、その土地にしがみつき、田地田畑を耕して生きてきた農民にとって、極めて残酷なことで、命を失うにも等しい、つらいことです。 あのようなつらい思いは、私たちの時代で終わりにしてほしいと、思ってきました。 しかし今も福島には、立ち入りできない町や地区があります。 道路にゲートを創り、頑丈な鍵をかけ、立ち入りできないのです。 私たちと同じ苦しみを、今また、味わっている人々が大勢います。 現在も十六万人もの福島の方々が、故郷を奪われ福島から避難して暮らしているそうです。 国策による原子力政策の犠牲者です。 しばらく前、原発問題の意見発表会に、数限られた発表者のなかに、電力会社の社員が巧妙にも潜り込んでおり、 こう、発言していました。 「副島原発事故では一名の死亡者も出していない」 と、おおイバリで、胸を張って叫んでいました。 一方、政府の「事故調査・検証委員会で委員長代理を務めた、柳田邦夫さんはこう指摘しています。 「原発事故は、被害が広大な地域に広がり、数十万人の被害者を生みだしています。 福島県全体の災害関連死者761人のうち、かなりの人が原発事故で避難したひとです。」 先ほどの電力会社の社員は、会社の命令で会社の書いた原稿を読んだだけでしょう。、 電力会社それ自体、そしていまだに原発が必要だ、再稼働が必要だと考えている人々には、避難しながら命を失った人々も、故郷を放射能によって汚染され、故郷を失った人々、家族を引き裂かれて生きている人々の悲しみも、苦しみも全く理解していない、ということです。 さらに、原発は被曝労働なしには動かせません。電力会社の下請け、孫請け、さらにその下請けの労働者は、放射線量計を付けずに作業したり、着けてはいても鉛の箱でカバーし、被ばくを隠して、命を危険にさらしている、そういう原発産業内の、差別の事実にさえ見て見ないふりをし、隠そうとしています。 パン! 水俣病研究などの「公害原論」の研究や普及活動に人生を捧げた宇井純という公害学者が、こういうことを言っておりました。 「もし、日本人が足尾鉱毒事件について、あるいは田中正造の闘い、そして谷中村の滅亡などの歴史について、ちゃんと学んでいれば、水俣病公害は起こり得なかっただろう」と。 そして昨年の3・11以降は、様々な方々が、宇井純さんの言葉に続けて 「福島原発事故も起こらなかっただろう」と指摘しています。 福島原発事故直後、日本中の図書館から、田中正造、足尾鉱毒事件、谷中村滅亡についての本が消えたと言われています。借り手が殺到したらしいのです。 また、各地で開かれた講演会で「田中正造と3.11」とか「足尾鉱毒事件と福島原発事故」というような講演会は、いずれも立ち見が出るか、補助椅子を並べるほどの大盛況でした。 パン! 一体全体、田中正造の、何が、3・11以降の日本の人々の心をとらえているのか。 その、もっとも核心的な部分、中心的なものは、足尾鉱毒事件を闘った、田中正造先生や共に戦った人々が、その闘いを通じて、磨き上げてきた、文明批判と、真の文明とはいかにあるべきか、という考え方だろうと思います。 有名な正造先生の言葉に要約されています。 「真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 人を殺さざるべし 真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 人を殺さざるべし」 日清、日露戦争を背景に明治政府は富国強兵、殖産興業の国策とし、政府、企業、軍は結託しておりました。 「文明開化」などと言いながら、科学、技術、政治、倫理、つまりは、国策と文明そのものが、この国の自然環境、生態系まで脅かし、人々の暮らしを破壊し、多くの国民の命まで奪っていきました。 正造先生の言葉に次のようなものがあります。 「日本の文明、知あり徳なしに苦しむなり。 悔い改めざれば滅びん」 つまり、この文明を続ければ、国は滅びると考えていました。 さらに、 「電気開けて、この世、暗夜となれり」 これはすごいですね。 「電気がついて、この世は暗くなった、夜は闇夜となった」 誠に、痛烈な現代文明批判です。 これは、聴きようによっては、福島原発事故を予言していたのかも知れない、とさえ思えます。原子力の「ゲ」の字もない時代にです。 3・11が私たちに突きつけたものは、科学、技術、政治、倫理、さらに人類の文明そのものが、人間の存在そのものを脅かしているということではないでしょうか。 そもそも、原子力の利用という文明論的な問題を、目先のエネルギー問題を同次元で何パーセントならいいとかわるいとか、比較できるものではないはずです。 そもそも、自然界に存在しなかったものを作りだし、そのコントロールもできないし、その最終処分の方法さえ、いまだに解決もされていません。 原子爆弾も、原発も一端処理を誤れば、人類文明は根本から崩壊してしまいます。 これは現代の文明そのものが誤っている、国策そのものが誤っているということでしょう。 このような点で、足尾鉱毒事件と水俣病などの公害事件と、3.11の共通性が語られるのだとおもいます。 足尾鉱毒事件は100年公害と言われています。いまだに毒物堆積場から毒物が流れ出し、一部の畑で採れた白菜の芯の部分は鉱毒で真っ黒になるということがおきています。 古河工業の主張は当時から一貫していました。 「銅の生産は国策である我々は御国のために国策を実行しているだけである。わが社には何の責任もない。」と。 その古河工業が初めてその加害責任を認めたのは、なんと1974年です。わずか38年前のことです。群馬の被害農民との調停書のなかで、初めてみとめたのです。 しかし、今でもなお、鉱毒は流出を続け、足尾鉱毒事件は、まだ終わっていないのです。 パン! 今年の6月の東京電力の株主総会で、会社は質問に答えて 「原発は国策です。東電は政府の命により政策を実行しただけです。したがってわが社には責任はありません。」 と、ヤジと怒号のなかで答弁したそうです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ パン! さて、田中正造先生先生がどのような方だったか、私のこの目で見、この耳で聞いたことを御話ししましょう。 わたしは、足尾鉱毒事件で田中正造先生と出会い、お話を聞いたり、ともに運動に参加しているうちに、ウマが合うというのでしょうか、いつの間にか、先生の雑用係、身の回りの世話、旅のお供、カバン持ちなどをするようになりました。 田中正造先生は1913年没、来年で没後百周年となります。 正造先生は、現在の栃木県は佐野市のお生まれです。 佐野市と言えば、「鉢の木」でゆうめいな佐野源左エ門常世の墓がございます 鉢の木の話は、事実であるという証拠はない。伝説にすぎない、というのがもっぱらですが、現実に墓があり、その傍らに「重要文化財、佐野源佐衛門常世の墓」と書かれた立て札が立っているのもまた事実です。 佐野という所は、源佐衛門常世が、鎌倉よりの、非常招集の陣触れをうけ、妻白妙と妹玉笹に、留守を託して、名馬大浪にまたがり、「いざ鎌倉」と、駆けつけた、その出発点になった土地とされています。 正造先生は講談が大好きで、よく聴きに行ったり、自分でも語っておりました。道を歩きながらでも鼻歌代わりに講談を口ずさみ、風呂の中でも気持ちよさそうに講談をやってました。 中でも鉢の木、特に「源左エ門の駆けつけ」は、故郷のヒーローの話ですから、おはこ中のおはこでして、しょっちゅうやってましたから、私もいつの間にか覚えてしまいました。 ある日のこと、田舎道を一緒にあるいておりますと、いつものように先生が、 「さても源佐衛門」とはじまりましたから、私は一歩さがったいつもの位置で、聞こえないような小さな声で 「その日のいでたちいでたち いかにとみてあればア」 とつぶやくと、先生に気づかれてしまいまして、 「オヤ、君もすっかり覚えてしまったようだなあ」 「じゃあ、こうしよう、わしが読むから、君は叩いてくれ」 「たたくって、肩をですか」 「アハハ、面白いことを言うなあ。肩ではない。張り扇だよ」 「張り扇など持っていませんが」 「口だよ口、ほら口三味線というのがあるだろ、チントンシャン、ツル、トッテンシャンとかいう。あれと同じで口でやるんだ」 「どんなぐあいに?」 「そうだな、パンとひとつ、パンパンと二つ、パーンパンパンと三つ、まあ、これらをくみあわせればいいんだ、いいか、いくぞ、まず三つ叩け」 「三つですか、では、パーン、パンパン」 「元気がないな、神田香織先生がいつも言っているだろう、丹田に力を入れて、リズムに乗せて、声を遠くに向けて、」 「はい、それでは、パーンパンパン」 「その調子だ、続けるぞ、さても源佐衛門その日のいでたちいかにとみてあれば、それ」 「パーンパンパン」 「イヤイヤ、そこはひとつパンだよ、もう一回行くぞ その日のいでたちいかにとみてあれば、それ」 「そこはひとつパン」 「ただのパンだけでいいんだよアハハ」 こんなあんばいで二人で大笑いしながら、先生と田舎道を歩くはとても楽しく、あっと言う間に目的地についてしまうのです。 私は、先生が私と遊んでくれているものとばかり思っておりましたが、先生にとっては、ただの遊びではないのだ、ということがわかったのは、それからまもなく、初めて東京での演説会にお供した時のことです。 私は東京は初めてで、見るものすべてめずらしかったのですが、東京での演説会は、地元の事情をよく知らない人々を相手にするわけで、これまで何度も聞いた地元や被災地の、お寺の本堂などでの正造先生の演説会とはずいぶん違うものでした。 「渡良瀬川と利根川とどこで合流しているの?」「鉱毒事件はどの辺で、どのようにおきてるの?」という疑問をもっているような方々を相手に講演する場合などには、別の語り口ではじめるのです その日は東京で行われた演説会で「田中正造翁大演説会」「足尾鉱毒事件の真相を語る」と会場には幕が掛けられておりました。 わたしは、舞台のそでから見ていたのですが。もちろんマイクなどありません。 会場は数百人の大会場ですでに立ち見もでようかというようす。会場内ざわざわと騒がしいありさまでした。 ふつうなら、ここでまず、司会者が立ってあいさつし、先生を紹介して、先生が演壇に立つところです。 ところが、正造先生、司会者に何やら耳打ちし、司会者もうなずいております。 すると正造先生、すぐに演壇に立ちました。おや、どうしたのかなとみておりますと、 会場の人々の一部は気がついたようですが、まだとなりのひととおしゃべりしている人も大勢います。、 正造先生、いきなり「まずは佐野源左エ門の駆けつけを聴いていただきます」 と一礼し、 あの熊の手のような大きな手で思いっきり演台を「パーンパンパン」と叩くと 「さても源佐衛門・・・」 とはじめたのです。 わたくしはどうなることかと、かたずを飲んで見ておりました。 「何か始まったなと」おおくに方々が演壇に注意をむけはじめました。でもまだすこしざわつきがのこっていました、しかし 「先祖伝来の銘兜なりー、パーンパンパン」うったところで、会場は完全に静かになり、注意力が正造先生に集中していました。ここまでわずか三十秒です。 あのざわめきをわずか三十秒で静めて、自分の世界に引き込んでいる。本当にびっくりしてしまいました。 当時の人々はみんな講談が大好きです。聴衆は正造先生の見事な語り口に、うっとりと聴き入っています。 「駆けつけ」は早い人で4分ちょっと、ですが正造先生は会場の広さと聴衆の多さを計算して、たっぷりと5分くらいだろうと思います。 そして、「これにて読み終わりといたします」と頭を下げた時、割れんばかりの拍手で会場はみちあふれました。 「さても源佐衛門」から始まって、5分後には完全に人々の心をつかんでしまったのです。 そのとき私は気がついたのです、田舎道で私と掛け合いで「駆けつけ」を読んで遊んでくれていたあの時も、先生はこうした場面に備えて、練習をしていたのではないかと さて、正造先生、頭をあげても拍手はなりなみません。 先生はニッコリと笑いながら右手を挙げて、拍手をおわらせ、 「ありがとうございます。ただいまのは御馴染の源佐衛門の駆けつけでした」 そして本題に入って行きます。 「実は、今語りました、駆けつけの中に、足尾鉱毒事件の汚染ルートが語られています」 聴いている人はびっくりします。あの講談は、話の始まり前の、サービスかと思っていたら、なにか訳があったんだ。なんだろう、と身を乗り出してきます。すっかり先生の話術にはまっています。 語り芸修行の第一番、「耳を集めろ」 耳と言っても、食パンの耳ではありません、聴衆の耳を集めろ、聴く人々の注意力、関心をあつめろ、という言葉を聞いたことがありますが、今がまさにそういう状態です。 「源佐衛門は濁流渦巻く利根川を渡って対岸の栗橋に上陸します、その利根川を渡った地点に重要な問題があります。」 と続いていくのですが・・・・・ その部分だけに限って再現してみましょう。 「パン!ぱんぱん! ここ、鎌倉街道 松本富田をあとになし 急げば古賀の宿よりも続く中田の渡しも超え 急ぐに急ぐ利根川や 坂東太郎と名も高き 八十八川の落ち合う所を一時にざんぶと押し渡る 日光山の雪溶けて降り続きたる春雨に 水かさ増さり水勢は 天に轟き地に響き 瀬枕たったる激流をものともせざる常世の馬術・・・」 この部分の中に、まず第一に、常代が渡った川が、今問題の、渡良瀬川の下流の利根川だということがわかります 二つ目に、「坂東太郎と名も高き」とはどういう意味か? これはほめ言葉ではありません、度々洪水を起こして人々を苦しめた暴れ者という意味です。 三つ目に、八十八川の落ち合うところとはどこか 現代の地図でも容易に想像できます。皆さん家に帰ったら子供の地図帳を見てください 日光山系から流れ出した何本もの川が利根川と合流する地点があります 渡良瀬川、旗川、秋山川、菊川、才川などです。 その川の中でも。もっとも大きな川が渡良瀬川です 日光山の雪解け水は渡良瀬川をはじめとする幾筋ものかわに分かれてくだり そして同じ所で利根川と合流するために、この地点は激流となりやすく、洪水をひきおこすことも度々あった、ということです、しかも、春雨が降り続いていたという条件が重なっています 四つ目に「水かさ増さりし水勢は、天に轟き地に響き」という表現も講談らしい誇張だと言えばそのとおりかもしれませんが、しかし、それが単なる「誇張」ではないという真実性もあったのだろうとおもわれます。 パン! さて、そこで毒物の汚染ルートがわかります 正造先生は、「駆けつけ」から初めて 汚染ルートの解説へと展開していきます。 この先はわたくしの語りとして、先生の話の内容を続けます。 汚染源である足尾精錬所は、現在の地名で栃木県日光市足尾町となっております。 日光山の一角に、現在も建物は残っております。 そしてその精錬所のふもとに流れているのが渡良瀬川です。 渡良瀬川の川底には、精錬所から発生した大量のズリとよばれる鉱物のかすがたまり、ドロドロとした赤い水、黒い水が流れ、川は大量の毒物を運び、渡良瀬川沿岸の田地田畑を汚染しながら流れ、同じ地点で他の川と利根川に合流し、利根川を汚染していきます。 そしてこの地点は、源佐衛門の時代から洪水のおきやすいところであったということです。 パン! ただし、源佐衛門の時代と、足尾鉱毒事件の時代とでは大きな違いがあります。 それは、源佐衛門の時代は、山には森があり、木があったということです。 森は天然のダムと申します。雨が降れば雨を蓄え、森の生き物たちをやさしくはぐくみ、あるいは地下水としてあるいは小さな小川のせせらぎとして少しづつ水を流し、下流の生き物、そして人間にも恵みをもたらします パン! 一方足尾鉱毒の時代は山に木が有りません。森もありません、これは決定的な違いです。 足尾銅山の精錬所のお大煙突からは、もくもくと亜硫酸ガスの黒い煙が吹き出し、近くの山々の木々はみな枯れ果ててしまいました。 煙の届かないところで、無事に残っていた木々は、精錬所の燃料とするためにことごとく切り払われ、全くのはげ山となってしまいました。 こうしてはげ山となった山々は水を保つことができません。大雨が降ると、激流となって、時には土石流となって、川に流れ込み、川は氾濫を起こし、下流域ではさらに大きな洪水を引き起こして行きました。先ほどから申し上げているように、佐野源左門の時代からの洪水の名所です。 はげ山は、比べ物にならないほどの大洪水を引き起こしていきます。 そして、 洪水の水が引いた後、田地田畑には毒物を大量に含んだ分厚い泥が残されたのです。 さて、足尾精錬所から垂れ流される毒物によって、汚染された渡良瀬川には、白い腹を上にして、死んだ魚が累々として流れ、川の水を引いた田んぼの米は食べることも売ることもできず、やがてイネには一粒の実も取れなくなりました。他の農作物も育たないようになりました。 川の魚を採って生計を立てていた漁師、そして農民も生計が立たなくなりました。 しかし、銅の精錬は日清、日露戦争のための国策です。政府は、足尾鉱毒事件そのものの存在をみとめませんでした。 一方、「除染」という言葉は私たちのころにもよく使われました。 当時の「除染」というのは汚染された泥に覆われた田地田畑の上のほうを2,30センチ鍬やスコップで削り取ることでした。そんなことをしても、死んだ土は容易には生き返りません。 そして、取り除かれた汚染された泥は、毒物堆積場というものを谷間にこさえて、小さなダムのようなところに捨てていくのです。 これを称して、会社や政府は万全の対策だ、安全だ、もう終わった。 といったのです 今でもよく聞く お得意の「安全宣言です。終結宣言です」。 これほどいい加減なものはありません。 汚染された土地をもとに戻す大規模な土壌改良が始まったのは、戦後農地解放後の1960年のことです しかし、地下から赤い水がしみだし、坑道からも毒水は流れ出し、そして昨年の3・11の地震で数か所の毒物堆積場が決壊し、ながれだしてしまったのです。 これを報じたのは、わたしの知る限り、地元の新聞と、少し遅れて「東京新聞」だけだったとおもいます、 パン! さて、ここまでは足尾鉱毒の汚染の実態の説明です。 正造先生の講談説法、ここから一転して、農民たちの反撃の闘いへと展開していきます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 最初にも申し上げました。わたくしたちが望んでいたものは、きれいな空気、きれいな水、そしてきれいで豊かな土でした。何の贅沢を求めていたわけでもありません。ほんとうにささやかな願いです。 しかし、このささやかなこの願いをかなえるためには、そして奪われたものを取り返すために、私たちは厳しい闘いに挑まざるをえなくなったのです。 足尾鉱毒の犠牲になった農民、漁民をはじめ多くの人々は、政府に責任を求めて、何度も「押し出し」というものを実行しました。押し出しというのは今でいうデモ行進と、国会への請願、政府への陳情活動のことですが、あの実態は「押し出し」という言葉のほうがぴったりだと思います。 栃木、群馬、埼玉、茨城も各地から、東京を目指して二千人、三千人が握り飯を腰に下げ、徒歩で押し出していのです。田中正造先生は、徹底した非暴力主義者です。日清、日露の戦争に反対したばかりか、軍隊そのものさえ否定していました。ですから農民の行動にも一切の武器やそれに類するものを禁止していました。農民たちが持っていたのは、幟旗とおにぎりと、水をいれた竹筒だけでした。 パン あれは、1900年2月のことでした。 鉱毒被害に苦しむ農民たち二千五百人が、押し出しに向かう途中で、警官隊と憲兵隊に待ち伏せされ激しく暴行され、多ぜいのものが逮捕され投獄されました。そして国民を守るためにあると思っていた軍隊は、警官隊による暴行現場の周囲を取り囲み、その銃口を私たちに向けたのです。川俣事件とよばれています。 逮捕された人々は凶徒集合罪という罪にとわれました。「きょうと」の「きょう」は凶悪犯の「凶」です。 パン そして日の当らぬ、じめじめした所に、ぎゅうぎゅうの、寿司詰めにして、長期間拘留されました。これは明らかに拷問でした。 日ごろお天道様の下で、畑を耕し、魚をとったりしている人々を、こんな風に押し込めるというのは拷問以外のなにものでもありません。 精神的に追い詰められた人も少なくなかったのです。 (話がこの辺に来ると、ハンカチで目頭をおさえる女性たちもいます。) パン! しんみりとしたところで、正造先生、次の反撃を語り始めます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ パン さて、男たちが捕らえられると、今度は女たちが立ち上がりました。 「女押し出し」と言われております。 これも、警官隊の待ち伏せに会うのですが、女たちから浴びせられる罵詈雑言に、警官たちも戦意を喪失し、何の手出しもできずに、ただのろのろと女たちの後ろに続き、女たちは国会請願と政府の陳情という目的を達しました。 (この辺に来ると拍手がわいてきます)。 さらに、女たちはいかなる「罵詈雑言」をはいたのか、その時に参加していたご婦人たちに何度も教えてくれと頼んだのですが、ご婦人たち、顔を見合わせるとゲラゲラと笑い転げるばかりで、真相はわかりません。現代史の謎であります。 さて、それにしても世に恐ろしきは「女の力」まことに恐れ入るところでございます。 (この場面では笑い声と拍手です) こうした正造先生の演説会は、東京、神奈川、千葉など随所で開催されていきます。 回を重ねるごとに、先生は都市の人々の反応のツボをとらえ、泣かせたり笑わせたり、 それは、いつも舞台のそでで聴いている私から見ても、実に見事なものでした。 そして、この活動は、学生や若い労働者の心をつかみ、新たな大衆運動へと発展していきました。 学生たちが足尾鉱毒調査団をいくつも立ち上げ、現地を歩き、農民に話を聞き、それをもとに、各地で報告会を開いていく。世論は盛り上がっていきます。この世論の盛り上がりを背景に、正造先生の政府への追及は、ますます鋭くなっていきます。 「あなたがたのまゆ毛の下で光っているのは何だ?銀紙か、この現実が目に入らぬのか 足尾鉱毒事件を調査せよ!」 と迫って行きます。 銅の大量生産は国策です。権力と古河工業が結託した国策事業です。犠牲者や被害者のことなど、眼中にありません。 したがって政府の答弁はいつも 「鉱毒事件などは存在しない、存在しないものを調査できない。」というものでした。 しかし、世論の高まりと、するどい追及に、 「このまま、いつもの答弁で、切り抜けるのは難しい」 という判断をします。 パン そして政府は、ついに 「その件については、東京帝国大学に調査を依頼する」 という答弁に変わりました。 これは大きな変化でした。 こうして、東京帝国大学に調査委員会が設置されました。 パン! さて、みなさん、この調査委員会、とか「なんとか会議」とかいうものは、昔も今も曲者ですね。 原発関係でもいくつもの委員会があります。 これは、朝日新聞に出ていたのですが、ある人の証言では、 「これらの委員外に、原発反対派を完全に排除するのはまずい。しかし、三分の一以上を決して上回ってはならない、 という、委員選考の裏基準があり、結論は、あらかじめ決まっているのと同じだ。めんどうなら、両論併記にすれば、政治家、官僚にとっては好都合」 ということだそうです。 パン さて東京帝国大学、元々、末は博士か大臣か、と立身出世の象徴のようなところ、国策に従うのが立身出世のためになることは明白です。 第一回目の委員会では 「「問題は銅山から始まっているのだから、銅に限定していきましょう」 という提案が出されます。そうだ、そうだ、とうなずく中に、唯一人異論を唱えました。 医学部の林春雄助教授です。 「足尾銅山の銅鉱石は硫化銅であり、鉛、亜鉛、マンガン、ヒ素、カドニウムなどを含んでいる。従って複合汚染として調査を進めるべきだ」と発言しました。 この林助教授、ただちにドイツ留学を命じられました。 林助教授のいなくなった委員会、政府に報告書を提出しました。 「銅にかんして被害は見当たらない。むしろ、少しの銅は体によい。」 というものでした。 そして、洪水、治水対策として、沈殿池を提唱し、谷中村を土地収用法に元ずく強制執行で住人を追い出し、建物を打ち壊し、沈殿池、遊水地としてしまいました。 そして、これにて鉱毒問題は終わった、終結したと宣言したのであります。 パン 田中正造は、国会にも政府にも絶望し、ついに国会議員を辞任、天皇に直訴にする決心を固めます。そしてそれが新たな波紋を巻き起こしますが・・・・ これはまた、次回へのお楽しみとさせていただきます それから、皆さま方にはまだ御話しておりませんでしたが、実はあの世には蓮の池というのがあります。芥川の「クモの糸」にでてくる池は地獄がみえるいけですが、あれは創作でして、本当は娑婆といいますか、この現世が見えるのです。ですからいろんな方があのよからこの世を覗き込んでいます。 今でも誰かが(と上をみる) 先日私が蓮の池を通りかかったところ、二代目神田山陽先生が、ニコニコと上機嫌でしゃがみこんで池を覗き込んでいました。山陽先生相変わらずの将棋好きで、あの世には名人上手がたくさんいるわいと、大山名人や益田名人を始め、片っぱしから「一番お願いします」といっては将棋をたのしんでおられます。ダンスも相変わらずです。 「先生しばらくです、なんだか楽しそうですね?」 と声をかけますと 「やあ君かい、ほら見て御覧、」 と池の底を指さし 「ほら、わしが育てた女性の講談師たち、みんなよくやってるよ。」 「本当ですね、皆さんよく活躍で、結構ですね」 「特に香織が素晴らしい、なかなか頑張ってる。たいしたもんだ。」 「先生、おっしゃる通りです。実はわたくし、人間に化けて講談のご指導をお願いしているんです。」 「そうか、君はあちこちいけるから便利だな。 それじゃあ香織に言っといてくれ、頑張るのは結構だけど、休養をしっかりとるようにとな。香織は相変わらずの美人だし、四十五、六位に見えるけど、もうじきたしか・・ まあ、そんなことはいいから、体を大事にしろって、そう伝えてくれ」 そんなことがありました。 真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 人を殺さざるべし 真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 人を殺さざるべし 今回は 谷中村の幽霊 田中正造の講談説法の巻、これにて読み終わりといたします。 |
|||