時局講談「人を喰う魚?築地市場豊洲移転騒動の巻」
(2017・4・27 高円寺グレイン出演版)
(築地市場のセリ場の音が流れる。橋織丸が登場し、釈台の前に立ち、張り扇を「パパンパパン」と叩いたら、セリ場の音が止む。)
(※注 時間の関係上、枕は短くする。上演ごとに時節、時局に合わせて変える。左記は一例。長めの自己紹介を掲載。)
高橋織丸でございます。時が経つのは早いもの。神田香織主宰の講談教室「講談サロン香織倶楽部」も今年の暮れにはお陰様で一〇周年を迎えます。私はその第一期生で、今やわずか二人しか生き残っていません。継続は力とも申しますが、私の場合は、他に道楽がないゆえやっているだけで、ひと様に自慢できることではありません。
さて今日は、築地市場の豊洲移転騒動のお話をさせて頂くわけですが、
実は私がまだ学生の頃、アルバイトで築地の青果市場、いわゆる「やっちゃば」で荷扱い労働者として二年。そうこうするうちにお隣の魚市場の方が実入りが良いというので、そちらで十年。合せて計十二年築地市場でお世話になったことがございます。一九七〇年代でしたが、当時は冷凍用の貨車によって魚が運ばれた時代でした。売れない絵描き、カメラマン、私のような演劇をやっている者、さらには本土復帰前の沖縄の若者などが働いており。お昼過ぎに市場の銭湯に入れば、背中に色とりどりの模様のある方も結構おられ、同じ労働者として裸のお付き合いをさせて頂いたことを懐かしく思いだします。
以来今日まで、少なくても二日に一度は魚を食べないと体の調子が悪いということで、それも近くのスーパーではなく、雨が降ろうが雪が降ろうが槍が飛んでこようが、どんなに遠くても街の魚屋までチャリンコ飛ばして買い出しにいくという魚大好き人間になったわけであります。
「さて今や、東の豊洲、西の豊中。東の盛り土、西の森友。東の小池、西の籠池」とまぁよく似たお名前とお話が、世間を賑わしておりますが、今日は、かって築地でお世話になった恩返しも含めて、豊洲移転の真相に迫ってみたいと思います。
小池都知事が「今一度、立ち戻って考える。」と称して、黒塗りの「海苔弁」を剥がしての情報開示。そして昨年十一月七日に予定されておりました「豊洲新市場移転」を急遽延期。
その後、土壌汚染の拡大防止のためには無くてはならなかったはずの「盛り土」がなくて、建物の下は、がらんどうの「地下空洞」が発覚。
さらには(二年間義務付けられている)「汚染水モニタリング調査」も、それまでは大して問題がなかったものの、都知事が代わるや否や、たちまち環境基準を大きく超えて、この一月にはベンゼンが環境基準の79倍。わずかな量で命が危険なヒ素、シアンまでもが検出。さらに三月には、(調査の公平を期すために4つの業者に調査を依頼。すると今度は)環境基準の100倍ものベンゼンが検出されるなど、これまでの調査がいかにインチキ、ずさんであったかが白日の下に露呈。まさに豊洲は、手の施しようのない果てしなき土壌汚染地帯であることが判明。
 にもかかわらず、ここに来て長年、豊洲移転を画策してきた移転推進・築地跡地利権派が、都議選を前にして、「このまま行くと、豊洲移転が中止になり、大金はたいての投資がパーとなり、肝心な築地市場の跡地利用も夢のまた夢となる」と恐れてか、慎重に慎重を期す小池都知事に、豊洲移転の早期決断を迫り、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」がごとく御用メディアを使っての「築地市場バッシング」を展開。
とはいうものの、築地市場は、これまでは八〇年余にわたってただの一度も食中毒もなく、安全・安心を担保に生で魚を食べても大丈夫と「寿司文化」を世界に広めたところ。今や老いも若きも、そして外国人までも押しかける観光スポット。
築地には、マグロだけでも、インドネシア、ニュージーランド、ケープタウン、ペナン、フィージー、オーストラリア(などマラッカ海峡、インド洋、南太平洋から。地中は)トルコ、ギリシャ(などから。北太平洋からは)カナダ、ニューヨーク、ハワイ(など。南米からは)チリ、メキシコなど合わせて世界七〇ヵ国から(船と飛行機で)運ばれてくるという。これもひとえに安心、安全の「築地ブランド」があればこそ。
(先ほど冒頭でお聞きいただいたのは、朝五時半から始まる築地市場のマグロの競り場の光景。かってこの「セリ場」を見学したフランス人が、「築地市場のセリ人は指揮者で、仲卸との掛け合いは、リズミカルでまるでオペラを観ているようだ。日本の食文化はまさに芸術だ」と褒めたたえたことがございます。
そしてこのセリに欠かせないのが、仲卸という「目利き」の名人たち。
数多くの名人の中から本日は、長年に亘って豊洲移転反対の運動に取り組まれてこられましたマグロ仲卸業者の最長老・野末誠さんを紹介させて頂きます。

一、マグロ仲卸・野末誠

野末誠さん、今から七五年前の四歳の時から水産仲買人であった父親に連れられて築地市場に出入り。一九四五年(昭和二〇年)三月一〇日、B29爆撃機で一瞬のうちに東京下町は焼け野原、いわゆる東京大空襲。この時、深川消防団長であった父親は、住民の避難誘導のため自宅を出たまま帰らぬ人となったのでした。
戦後まもなく一家は、母の実家のある群馬に移住。暮らしは決して楽ではなかった。それゆえ、いつしか誠少年は、父の面影を胸に抱き「自分も大きくなったら親父と同じ魚屋になろう」と決心。小学校五年の時、遊んでばかりいる誠少年に「誠、ここに来て座りなさい。お父さんと同じ仲買人になるにはね、遊んでばかりいては。早起き、読み書き、そろばんが出来ないと務まらないわよ」と母親から厳しく言われて一念発起。
早起きに慣れ、責任感を養うために中学一年の時から新聞配達を始め、稼いだ金はそっくり母親に渡し、学校の授業も読み書きそろばんだけは誰にも負けないほど成績優秀。筆は独学で学び、今では江戸文字のひとつである勘亭流を特技とする達筆家。
そして中学を卒業するやいなや、母親に連れられて上京。かって父と仕事仲間であった築地仲卸「野末商店」の社長と面談。念願かなって晴れて築地市場で働くこととなり、以来今日までマグロ一筋六五年。この五月に御年八〇歳となられる野末さんは、今でも朝二時には起床し、恵比寿の自宅を三時半には車で出発。築地には四時前には到着するという。すぐにその足でセリ場に行ってその日のマグロの荷受け状況を事前に下見。
「俺たち仲卸はね。医者に譬えると、外科、内科、皮膚科、眼科、ついでに指圧師でもある。マグロ一本一本、懐中電灯で腹の中を探りながら、漁場、鮮度、色、脂、肉質、締まり具合などを、目だけでなく、実際に手や指で触ってみて、肉質の跳ね返りを感じながら、その魚の生きのよさを判断して、値を付ける。それをわずか一本一七、八秒でやってのける。」
「市場での仲卸の役割ってのは、まず品物の価値をきちんと評価する。卸売市場が出来るきっかけになったのは、あの大正八年の米騒動(だと言われているが)。一部の商売人が物を買い占めたり、値を上げたり下げたりするのでなく、誰もが見ている衆人の前で競りによる、公正で正当な評価で(品物の)売り買いをするのが卸売市場。そしてセリで落とした魚は、それぞれの店で寿司屋か魚屋かのお客の注文、要望に合わせて荷分けをし、品物を売る。そして何よりも大事なことは、衛生面で安心安全でなくてちゃいけねぇや。そして最後に、その日のうちに卸売会社に支払いを済ませるってのが原則よ。
そもそも食べるっていう字は、いいかい、人という字の下に良いと書くだろう。人の健康や暮らしを良くするのが食を扱うものの基本でなくちゃいけねえ。
しかし今、起きている豊洲移転問題は、それとは真逆で、人の下に止めると書く。いわゆる利権に絡んだ人たちの企てごとよ。なにせ市場を毒物のある土地の上につくろうなんていうんだから。食品を扱う者として黙って見過ごすわけにゃいかない。これまで八十年以上、代々受け継いできた築地市場の役割、命ってものがことごとく破壊される由々しき問題。これまでの十九年にわたる豊洲移転騒動は、まさに欺瞞と隠ぺいに満ちた歴史。それだけに豊洲移転は絶対に許すわけにはいかねえ」と静かな中にも怒りをこめて訴える野末さん。

二、豊洲新市場の実態

さて肝心な豊洲新市場の実態は、と申しますと、当初、移転推進派の方々は「築地は、冬は寒くって、夏は暑くってさながら吹きさらしの文化住宅。それに比べて豊洲は、夏でも涼しい近代的なマンション」と鼻高々に自慢をしておられましたが、今では「綺麗なバラには棘があり、一見見栄えのする豊洲新市場には毒がある」と言われるほど、世間の評判は地に落ち海よりも深き下落の一途。
都の前宣伝では「広くて、便利で、安全な豊洲新市場」であったはずにもかかわらず、築地で働く人や買出人の意見も聞かずに設計されたため「豊洲は迷子になるほど広くって、(魚河岸とやっちゃ場が大きな道路で分断され)魚を買って、刺身のつまに大根一本買おうにも、築地の何倍ものの時間がかかる」という。
店は確かに綺麗だが、広さわずか四畳半。だが「マグロを下すにも狭くて使い勝手が悪すぎる。活きた魚を入れる生簀も、水が多いいと床が沈むゆえ重量制限。お客の品物を預ける茶屋も、急な坂道上って4階まで、ターレで運ぶには、事故や荷崩れの恐れあり。
見栄えのする建物も、地盤がゆるく、大きな地震がくれば倒壊しかねないという始末。
その上、(都に支払う)家賃だけは超高値」とくれば空いた口がふさがらない。
中でも新聞テレビで大騒ぎとなっているのが、土壌汚染問題。
(ここから修羅場調子♪で語る)
一に、シアン(水に溶ければ青酸カリ、わずかな量でたちまちあの世行き)。
二に、ヒ素(吐き気をもよおす発がん性物質。森永ヒ素ミルク事件、和歌山カレー事件でその恐ろしさは有名)。
三に、もっとも量が多いのが揮発性の高い(白血病、発がん性物質の)ベンゼン
四に、(かって日本化学工業で多くの従業員が肺がんで死亡したという)六価クロム
五に、(イタイイタイ病で有名な)カドニウム。
これ以外にもまだある、まだあるよ。(水俣病で有名な)水銀、さらには鉛とくれば、まさに有毒物質のオンパレード。
しかし、「怖がることはございません。魚を洗ったり、飲み水にさえしなければ大丈夫」「盛り土がなければ、大気の汚染は大型換気扇で空高く吹き飛ばし、汚染水は浄化ポンプで綺麗な水にして海に流します」と専門家会議のお偉方は、相変わらずのんきな発言。「深刻にならずに笑って暮らせば、放射能は逃げていく」と述べた某福島大学教授を思い出し、ゾットする始末。

小池都知事になってから豊洲移転に関する会議は、築地市場の講堂で公開されることとなり、それゆえか、翌日は、市場の喫茶店ではこの話でもちっきり。
「おい聞いたかい。専門家の連中は、地下は危なくても、地上は法的にも、科学的にも問題がないっていうけどよ。万が一、コンクリートの隙間から地上に揮発性の毒が漏れたらどうなるのか?と尋ねたら、高さ一メートル以上は拡散するから、健康には支障がありませんっていうけどよ。人間ってのは上をむいたり、立ってばかりでなく、下を向いたり、場合によってはしゃがんで仕事をするときだってあるじゃない。運悪くよ、吹き出し口の近くで毒でも吸い込んでもしたら、いったい誰が責任を取ってくれるのかね。まさかこれも今流行りの自己責任っていうのじゃねぇだろうね」と笑うに笑えない話が・・・・・。
一方、移転推進派は「築地が施設が老朽化して、猫、鼠、ゴキブリ、カラスが大量にいて不衛生だ」とおっしゃる方がおられますが、石原都知事が豊洲移転を決めてからは、築地市場に金を掛けるのはドブの中に金を棄てるようなものだと、補修工事の予算はほとんど付かず、四年に一度の[店舗替え](店舗移動)すらなくなり、店の建て替えも十年以上も出来ぬまま。さびついた鉄の柱にペンキ塗るにも自前でやるしかないというのが実態。
それに鼠は鼠でも、豊洲は、築地のような子供だましの鼠採りでは捕獲できないドンと名の付く頭の黒い大きな鼠が白昼堂々と都庁を闊歩。夜な夜な新宿、銀座界隈ではホステスに囲まれ超高級の酒を飲み、利権に群がる業者の接待で私腹をこらし、中には東京ガスほか関連会社にそのまま天下った「黒い鼠」(都庁幹部)がゴロゴロと。
そして6年前の3・11東日本大震災では、築地市場は、棚から発砲スチロールの箱一つ落ちてこなかったという地盤の固さ。それに比べて豊洲は、瞬く間に液状化。三つ四つと大きな池ができ、地下から有毒ガスが吹き上げて、犬、猫どころか、小鳥、虫一匹も近寄らず、飛んで来たのは、カモメのみ。しかもカモメはカモメでも、電気で走るあの「ユリカモメ」のみという有様。
買い出しに行くにも、築地は地盤が固く地下鉄が(日比谷・大江戸と)二本走っているからいつでもだれでも買い出しに行くには便利だが、豊洲は、地盤がゆるいため地下鉄は走れず、地上を走る「ゆりかもめ」線とはるか遠くの有楽町線のみ。

二、不可解な豊洲移転の歴史
(※時間の関係上、上演の際は、大幅省略する。)
そもそも築地市場の豊洲移転計画が浮上する前は、青島都政の下で一九九三年から「築地市場再整備」が進められていたにもかかわらず、わずか五年目で突然、都の「財政難」を理由に工事が中断。
実は、工事中断の背景にはもう一つの理由が。そこから遡ること一〇年前。大手ディベロッパーやゼネコン各社が名を連ねる「日本プロジェクト産業協議会」が作成した「東京再開発事業計画が作成。そこには、
「有楽町駅周辺・日比谷・汐留・大川端・赤坂・六本木の再開発、都庁の新宿移転計画とともに築地市場の移転計画」を2000年頃までには実現を、と明記。
この企画書には、豊洲新市場の設計に関わった日建設計をはじめ、工事受注に参加した大手建設会社が名を連ねているというではありませんか。その後、築地市場移転以外は、着々と開発が進行し、後に残るは築地市場移転による跡地利用計画のみ。
(それゆえ箱もの行政に異を唱え、東京万博中止し、臨海副都心計画を大幅に遅らせたことで経済界は大いなる不満。)
そこで青島都知事に替わって産業界の意向に沿って都政を推進する人物として、知名度だけは抜群の石原慎太郎に白羽を当てたのでした。

三、移転が加速した石原都知事の築地市場視察発言

一九九九年(平成十一年)四月、石原慎太郎が都知事に初当選。その五か月後に自ら築地市場にやってきて、「築地は古くて、狭くて、危ないよ」と築地市場で働く人たちの心を逆なでする放言を吐き、それからわずか二か月後、豊洲移転にむけての事前折衝がスタート。
しかし東京ガス側は、「とくに豊洲の先端部である6街区(現・水産仲卸売場棟)、7街区(現・青果棟)は土壌汚染の問題があり、生鮮食料品を扱う市場としてはふさわしくないのでは」と当初難色を示したという。
都側の交渉責任者福永正通副知事が「(交通条件の良好な位置からして先端部の売却を)再度ご検討願えないでしょうか」と再三再四要請。
それに対して、東京ガスは書簡でもって「豊洲用地は工場跡地であり、食品卸売市場とするには、土壌汚染処理や地中埋設物の撤去等が必要であり、(とりわけ6街区・7街区の土壌汚染処理は)多額な費用を要するので、弊社としては受け入れ難い」と丁重に断ってきたため、交渉はデッドロックに乗り上げ。
そこで石原都知事は、福永副都知事に替わって、(石原慎太郎を兄貴と慕い、国会議員時代から慎太郎の秘書、片腕として辣腕ぶりを発揮し、かって右翼の活動家として鳴らしただけに都の幹部からも怖れられておりました浜渦副都知事を呼んで、「浜ちゃん、こういう交渉は、これ以上役人がやってもうまくいかないから、ここはお前さんがひと肌脱いでやってくれないか」と東京ガスとの交渉を一任。
 浜渦副都知事は早速、同年一〇月、東京ガス本社を訪問。
浜渦は、(徳川家康の大阪城攻略ではありませんが、本丸を落とすには外堀から埋めるのが勝負の常道とばかり)本社を訪れる前に、豊洲の街づくりに多大な影響力をもつ地元江東区の都区議、そして区長を口説き、周到な根回しをしてから、(これまで話が進展しなかった東京ガス窓口の幹部との交渉ではなく)東京ガスのトップである会長と懇意な国会議員を通じて、いきなり専務とのトップ会談を申し入れたのでした。)
そこで土地の価格ならびに土壌汚染対策の費用負担について難色を示す東京ガスに対して「いやそちら側の言い分、事情は良くわかっております。そこをまげてぜひ。ただこの問題は、あまり表に出せない話ですから、水面下でやりませんか」「東京ガスの株主さんには絶対に損をさせないよう、こちらで案を作りますからご安心下さい。」と早速、部下に指示して東京ガスに有利な条件案を作成。これによって交渉はトントン拍子に進展。
浜渦は、早速、石原都知事にこのことを報告したところ、石原都知事は、満面の笑顔を浮かべて「おおよくぞまとめてくれた。さすがは浜ちゃんだ。ご苦労さま」とひどく喜んでくれたという。
 そしてその翌年の2001年(平成十三年)1月、東京ガスは、独自の調査に基づく工場跡地の土壌汚染調査結果を発表。
 (この調査は、実はかなり手抜きの調査だったにもかかわらず)環境基準の一五〇〇倍のベンゼン、四九〇倍のシアン、四九倍のヒ素、二四倍の水銀、一四倍の六価クロムなど人体に多大な影響を及ぼす有害物質が検出。
にもかかわらず東京都は、翌2001年(平成十三年)2月、東京ガスと覚書を締結。そしてその後、もともとの売値は五三五億円の土地を、きれいな土地と同様の約一八六〇億円で購入。さらには東京ガスには、土壌汚染処理として一〇〇円億円のみを負担させて土壌汚染に関する瑕疵担保責任を免除。(その結果、今日まで土壌汚染対策だけで八六〇億円をも都側が負担。)
翌2002年(平成十四年)二月、石原都知事は、「東京ガスの汚染対策は、完了したので安全である」と「安全宣言」とともに移転を正式に発表。
しかしその後も、土壌汚染問題は再三再四浮上し、石原都知事は、2007年の三期目の都知事選で、豊洲土壌問題が争点の一つとなったため、豊洲の再調査および「専門家会議」の設置を約束。
翌5月、「専門家会議」の調査でもって、環境基準を超える有害物質が約1500箇所から検出。中でも慢性的発がん物質であり、吸入すると胎児の奇形にもつながる)ベンゼンがなんと環境基準の四万三〇〇〇倍、シアン化合物は最高800倍という異常な数字が出たのでした。
この調査結果を踏まえて「専門会議」は、地下2メートルの汚染土壌を取り除き、きれいな土と入れ替えて、さらにその上に2・5メートルの「盛り土」を行うことで、土壌汚染の拡大を防止できると「最終報告書」で提言。
この「盛り土」の実現には、(コンクリート12万トン。)長さ7メートルの10トンの大型ダンプがなんと12万台分、東京駅から横浜駅まで大型ダンプ車を連ねるほどの土が必要であり、費用は、一〇〇〇億円掛かると言われておりました。
しかしこの「盛り土」提案がなされる前年(二〇〇六年四月)、石原都知事は、2016年の第31回のオリンピックの会場を東京に誘致することを発表。そのためには「盛り土」工事は時間と金がかかるゆえ、オリンピック誘致にも支障が生じると判断してか、時間短縮可能な別の工法がないかを部下に示唆。
石原都知事の当時の最大の関心事は、卸売市場の将来よりは、東京ドーム五個分で銀座・新橋に近い超一等地の築地市場移転後の跡地利用の方に重きがあり、オリンピックのためのメディアセンターの建設を自慢げに記者会見で発表。さらには読売巨人軍の新本拠地「東京ドーム」ともにサッカー場(やフットボール、陸上)など、スポーツや大きなイヴェントが可能な「スーパードーム」の建設を夢みていたのでした。
(しかしその後、2016年のオリンピック誘致は落選。南米のリオデジャネイロに決定。にもかかわらず「盛り土」ぬきの工事がそのまま推し進められたのでした。)

四、土壌汚染問題の発覚と築地仲卸の行動

 こうした中、築地市場で働く人たちは、二〇〇四年頃から、新聞、週刊誌等でも取り上げられるようになり、移転先の土壌に毒が埋もれているということにようやく気付きはじめたのでした。
 当時、(築地市場の最大組織の仲卸組合、通称「東卸」の理事でもあった)野末誠さんは「このままでは、大きな黒い渦に飲み込まれてしまう、我々が声を上げなければ、とんでもないことになってしまう」と考え、そこで市場の中で信望の厚い、仲卸「山治」の社長・山崎さんに相談。
「山崎さん、豊洲新市場の移転についてどう思います。」
「野末さん、それがどうもおかしんだよなあ。築地は長年の食文化の拠点でもあるし、それに一度組合で意向調査をして移転はしないと決まったのにもかかわらず、理事会の上の連中は移転やむなしっていうじゃない。なんであんな毒のある場所に行かなければいけないのか、俺にはさっぱり分からないよ。」
「山崎さん、このまま黙っていては大変なことになってしまう。俺たちにできることを何かを考えなきゃいけないと思うんだけど、どうだろう」
「そうだね。野末さん、ぜひいっしょにやりましょう」と山崎さんは二つ返事で賛同。
翌日から早速、仲卸の親しい仲間一人一人に「移転はやっぱりおかしいよ。俺たちも何かしなくては」と呼びかけ、(いまから十一年前の)二〇〇六年(平成十八年)五月二十三日、山崎さんを代表にして、「市場を考える会」が正式に発足。
 土壌汚染問題がありながら、都はなぜ無理やり豊洲移転を強行しようとするのか?市場の人間だけでなく、もっと広く市民の人たちにむけて情報を発信する必要があるのでは?しかしそのためには、問題点は何かを正確に把握し、理解しなければ説得力がない、と考えた野末さんたち「市場を考える会」は、土壌汚染問題の専門家である環境学会の畑明朗先生や坂巻幸雄先生などを招いて勉強会や集会をやるようになり、会員も一〇〇人、一五〇人、二〇〇人と日増しに増えていき、そしてその年の十月、ついに食の安全、安心を掲げて、一五〇〇人ほどで移転反対の最初のデモを決行するまでになったのでした。
 (その後も築地から銀座、さらには都庁に向かって、ハチマキ、長靴姿の築地で働く人たちが中心になったデモが行われ、五回、六回と集会、デモが行われ、隊列は市民も参加して二千、三千となっていったのでした。)
このときのことを野末さんは「おれたち仲卸の人間は、誰もが反対運動やデモだなんて人生で一度も経験したことがない者ばかりでした。それまで魚屋として、ずっと築地で働き生きてきたのですから、まさに「人生で初めてのデモ」でした。」と述べておられます。(その後、「市場を考える会」は解散して、「築地市場・有志の会」「守ろう!築地市場パレード実行委員会」らのより幅広い運動へと引き継がれていくことになります。)
野末さんは、その後「人生で初めての法廷での闘い」をも経験することとなります。石原元都知事、浜渦元副知事ほか都の幹部を、土壌汚染の土地と知りながら、高額な
買収、その後の汚染対策費に五八六億円もの多額の金をつぎ込んだ責任を追及するいわゆる「豊洲市場土壌汚染裁判」。ニ〇一一年(平成ニ三年)八月に東京地裁に提出された「陳述書」の中で野末さんは、
「私は、この問題について、正面から闘わないと駄目だと決めた日のことは、今でも忘れません。この問題に取り組むなら人生を掛けないと、命を削らないと駄目だとすら思いました。人生をかけて取り組まないと、まともに戦える相手ではないからです。・・
この問題は、築地ブランドを守るかどうかといった次元の問題ではありません。
自分たちのためだけであれば、ここまでする必要がありません。
体にいいと思って、子供たちにせっせと魚や野菜を食べさせるお母さん、それを食べる小さな子供たち。市場でこれからも働こうと思っている若い人たちとその子供たち。豊洲に移転して、汚染された食べ物を食べて、苦しむのは、一般の市民であり、未来を担う子供たちです。
いざ何かが起きた時、移転に賛成している人も、反対している人も、福島の原発事故のように「こんなはずではなかった」とか「想定外だった」との一言で簡単に済まされるとしたら、わたしは死んでも死にきれません。」と。
 
五、「女将さんの会」

 そして昨年秋、これまで前面に立つことを控え、運動の下働きをしていた築地仲卸の女将さんたちが「これ以上、男の人たちだけに任してはおられない」と一堂に会して「
女将さんの会」を結成。その代表の山口タイさんは、御年七四歳とは思えない若さと情熱家。性格も明るく、人情味あふれるちゃきちゃきの魚河岸の女将さん。
学生時代、築地仲卸の息子であったご主人と出会い、「築地に行けば、美味しいものが食べられるじゃない」と周りからも強く勧められたこともあり結婚したという。
毎朝四時すぎには自転車で市場に出勤し帳場の仕事。市場に着いたら必ず、場内にある「魚河岸水(天宮)神社」にお参りして「どうか今日も元気で商いができますように、そして豊洲移転が、一日での早く中止になりますように」と毎日拝んでいるという。
 「主人は、何にも言わないのよ。男の人は色んな世間のしがらみがあるから迷うんだろうけど、女性は純粋に『やっちゃいけないことはやってはいけない』とはっきり言えるのよ。私たちは、今さらガンになったって仕方ないけど、市場で働いている何千人も若い人たちはこれから子供を産み、育て、働き続けなくちゃいけないのだから、安心して働ける職場でなくては。私は、息子だけでなく孫にもいずれお店を継いで欲しいから、市場がずーと安全な場所でなければ、と思うの」と語る山口さん。
「女将さんの会」のメンバーが一堂に会せば、たちまち「かしまし娘」で盛り上がる。
「豊洲に行ったら都に支払う施設使用料が今の4?5倍になるっていうじゃないの。そうなったら、100円のアジを150円で売らなくちゃいけなくなるかも。それでなくても若い人に魚離れが進んでいるのに、豊洲に行ったらますます売れなくなるわよ。」
「夕べ、父に訊いてもね、『俺たちが今さらどうこう言ったって、今さらどうにもならないよ』と諦めムードなの。」
「男って、ダメだわね。せっかく仲卸もようやく豊洲移転反対の理事会が誕生したのだから、諦めたり陽よったりさせないためにも、男の尻をたたきながら、これからは私たち女が前に出て頑張らなくては」と威勢がよい。
「女将さんの会」の活動は、長年、豊洲移転・反対で翻弄され、同じ市場の人間同志が、分断、対立をさせられ、感情的なしこりまで生まれる中で、もう一度、築地市場の良さを見直し、新しい築地市場の再整備にむけて市場の仲間が団結することを願って、昨年秋から「豊洲移転反対・築地再整備」に向けての署名運動や築地市場の仲卸7割から豊洲移転反対の署名を集め、小池都知事に提出し、今や堂々と都庁で会見。
(つい最近では、文化人や建築家を呼んで築地再整備に向けてのシンポジュームを企画するなど)長年の闘いで疲れ果てた男たちに替わって、女性ならでの発想で幅広く活動を展開。
この春、栃木県大田原高校の登山部の教員と生徒七名が、登山訓練中、なだれに会い死亡。自然災害でなく人災だと言われております。
 安心、安全が脅かされると感じたら「EQ \* jc2 \* "Font:MS 明朝" \* hps11 \o\ad(\s\up 10(や),止)める勇気を持つ」ことが山に登るものの鉄則。
 豊洲移転問題も、またしかり。
 昨年秋、映画「築地ワンダーランド」という築地市場の魅力を満載した映画が放映されました。安倍首相が「福島原発汚染水はアンダーコントロールされています」
と世界の人々に嘘を言いのけてオリンピック誘致に成功。
 今後万が一、横文字が得意の小池都知事に「築地ワンダーランド」でなく「豊洲アンダーコントロール」なんて嘘を言わせないためにも、今以上に「豊洲移転反対、築地でええじゃないか」の声をより多くの人々に上げて頂けることを切に願いながら、時局講談「人を喰う魚?豊洲移転騒動の巻」の読み終わりとさせていただきます。(完)