講談「鋳掛松」

講談「鋳掛け松」(原作 堺利彦 短縮版)

高橋織丸 作

 エー本日お話をさせて頂きます「鋳掛け松」は、日本の夜明けのために活躍致しました社会主義者堺利彦が大正の初めに「改造」という雑誌に四本の社会講談を書いた中の一つです。、全編語れば優に二時間近い大作でございます。本日私に与えられた時間は、わずか二、三十数分、それゆえ涙を呑んで大幅カットにての上演となります。
 さて皆さん、日本は昔から桜の国、菊の国、富士山の国と言われ、実に美しい国であります。「美しい国」といえば、今から四年前になんとかという総理大臣が「美しい国へ」という本をお出しになって、一躍評判になった言葉でもございます。
 たしかに日本は、春は梅、桜の花、そして秋は菊の花と実に美しい国であります。しかし皆様、忘れてはイケナイ。梅も桜も菊の花も、時が立てば散ります。昔の人は読みました・・・・「ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ」と。ですが、花は散ってもまた翌年になれば咲きまする。ところが、人が散ってしまっては、これはいけません。美しい国、美しい国と煽り立てられて、誰のためだか、潔く散ることこそが日本人の務め??あるべき姿であるかのように教え込まれた時代が(かつて)ありました。
 そして人が散るというのは、なにも戦争だけではありません。
 日本は、自殺者が十二年連続三万人以上という自殺大国。過労死ばかりか、経済的困窮に伴う生活の破たんから自分で自分の命を散らしてしまうという、なんとも痛ましいかぎりです。
 日本は今や世界に冠たる経済大国とはなったものの、働く者の三分の一が派遣・非正規雇用労働者。年収二〇〇万円以下の労働者が四人に一人。
 その一方で、(先日、財界の反対を押し切って日本でようやく公表されることとなった、一億円以上の役員報酬者二三三人。中でも日産の社長カルロス・ゴーン氏は、昨年度なんと八億九千万円の役員報酬とか。他にも赤字の会社や銀行の頭取まで名を連ね、コメントを求められた菅総理大臣も「首切りの上手い経営者が優れた経営者とみなされ、沢山の報酬をもらっているのは如何がなものか」と言わざるを得なかったという。また大企業は表向き赤字にもかかわらず、内部留保金なる隠し財産をがっぽり蓄え、その額は驚くなかれ今やなんと二四〇兆円に膨れ上がっているという。ヨーロッパをはじめ(お隣の中国でもホンダやトヨタの工場で働く労働者が)自らの生存と権利を要求してストライキで闘っているというご時世にもかかわらず、日本の労働者は相変わらず大人しく従順で、過労死が出るほどよく働くという資本家にとっては、実にこれ以上にないまさに天国。
 資本家だけではありません、アメリカにとっても、日本は天国。沖縄をはじめ日本各地に一三三の米軍基地があり、その七四%が沖縄にあるという。米軍に提供している基地面積は(ドイツについで)世界第二位。しかも陸、海、空軍のみならず、世界の果てまで勇んで駆けつける襲撃部隊として名高い海兵隊の訓練基地まであるのは、世界広しといえども多くはない。そのうえ年間約二四00億円もの「おもいやり予算」まで付けてやるなど。(これこそ消費税論議の前に仕訳人蓮坊さんに采配をふるって欲しいところではありますが)。さらにはとどまることない米軍の基地災害、基地犯罪は「地位協定」なるものがあり日本国内では裁けないという。まさに土地付き、金付き、犯罪免除付きという至れり尽くせりの特別待遇。
 ってなわけで日本は、実に美しい国でありますが、あげれば切りがないほど馬鹿馬鹿しいぐらい我慢強い、騙されやすいお人好しの民族ともいえます。

 そうは申しましても、沖縄の人のようにいつまでも我慢する日本人ばかりではない。昔の歌に「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」なる名文句がある通り、世の中が混乱し、貧富の格差が大きくなればなるほど、石川五右衛門や鼠小僧治郎吉に始まって府中三億円強奪事件に至るまで、いわゆるルパン三世なみの盗人??盗賊というものがはびこるものでございます。
 もちろん人の物を盗むというのは基本的にはよろしくない。よろしくないけれども、不思議に庶民が拍手喝采する人気者の盗人もいる。それというのも、持てる者、持ち過ぎている者から富を奪うという??今風に言えば、格差社会の構造を引っくり返してしまうという行動が、人々の心になにがしかの爽快感をもたらすということになるのでしょうか。本日お話し致します「鋳掛け松」こと鋳掛屋の松五郎も、実はその一人でございますノノ。

一、かえると人間との違い

 さて、頃は、今からザッと百七、八十年前の天保年間。お江戸は神田新銀(しんしろかね)町の一丁目に、鋳掛け屋の松五郎という歳の頃十八の若者が住んでいた。
 当時は、蛙の子は蛙、侍の子は侍、町人の子は町人、百姓の子は百姓、魚屋の子は魚屋、そして鋳掛屋の子は鋳掛屋になるというのが当然の士農工商の世。
 それからわずか三〇年そこらの後に、徳川様がもろくも倒れて明治御一新、百姓や町人の中にも実業家となり、代議士となり、資本家となり、富豪となるものが現われ、一方、士族の中には大小の刀を捨てて商売をやってみたものの、たいていはみな武家の商法ゆえ失敗して落ちぶれるという誰もが予想だにしなかった時代へと大きく移り変わるのでございます。
 ところが松五郎は、生まれた時代が少しばかり早すぎたためか、最初は何の疑問も持たずに親父の後をついで鍋、釜の底の穴をふさぐ鋳掛け屋になったのであります。

二、おれも不しあわせだが、おやじも不しあわせだ

 さて、松五郎のおやじは鋳掛屋の松蔵と言い、律気な半面、至極ノンキな男で、しっかり者の女房に先立たれますと、倅松五郎と二人で鍋、釜鋳掛を渡世にその日その日を侘しいながらも気楽に過ごしていた。
「オイ松ヤ」
「何だい、おとっさん。」
「おめえ毎度すまねえがなア、いつものとおり三合買って来てくんな」
「おとっさんまたお酒かい。およしよ。おとっあん、おらぁ一生懸命働くから、おとっあんもあんまりお酒なんか飲まないようにして二人でお足を貯めようじゃねぇか。ェおとっあん」
「ばかを言うなよ。酒なくて何のおのれが鋳掛けかなだ。ハッハッハハハ、どうせ一生このとおりだ。飲めなくなったら死ぬまでよ。ケチケチするない、江戸っ子じゃねえか。おらア真黒になってかせぐやつの気が知れねえ」
 松五郎はこうしたおやじの不甲斐なさに憤慨しながらも、逆にそれが励みとなって、わき目も振らず一心不乱に働いた。
 それを見ていつしか近所界隈では、「松五郎は若いのに感心だ、かせぎ者だ、孝行者だ」と、えらく評判となった。とりわけ禿げヤカンの大家さんは、すっかり松五郎にほれこんでしまって、外の若い者に意見をするたんびに、「お前たちもなぁ、いつまでも遊んでばかりいないで、チト松五郎を見習いなさいよ」と、いつも松五郎を引き合いに出すのが癖だった。

三、おれァ これからひとりで寂しいやい

 ある年の暮れのこと、雪の降りだした寒い夕方。松蔵がふぐを一匹さげて戻って来た。
「おーい松や、今帰ってきたぞ。今日はありがてぇ、これで一杯いただけらァ。なァ松、ふぐのチリというやつァ天下の珍味だ」
 なんて言いながら、夜中仕事をしていた松五郎をしり目にしながら、ふぐちり鍋をつつきながら例の三合をちびちびやりはじめた。
 ところがその晩、夜中過ぎになって、隣に寝ていたおやじがウンウンうなりだした。
「お父っあん、どうした?」
「いてい!いてい!腹がいてい!ああいてい!マ、マ、松や、おらァ死にそうだ!」
 松五郎はコイッァ大変だというので
「お父っあん、苦しいだろうが、しばらく我慢していてくんな。おらァ急いで医者を呼んで来るから」と、いきなり外に飛び出し雪の中を駆けだした。
 しばらくして松五郎がころがりこむようにして戻って来たが、すでにおやじは息をひきとっていた。
「おとっあん、お父っあん、今にお医者が来るよ。・・・-オヤ冷ていや。・・・:お父っあん、おめえ死んだんかい。・・・:ワアァッ!おらァいやだいやだ。・・・オイお父っあん、お父っあん、お父っあん」
 松五郎は、いつまでもいつまでも松蔵のからだにすがって叫んだものの、もとより返事の出ようがない。そして、その晩いつまで経っても医者は来なかった。
 
 やがて夜が明けると近所の人たちが、不幸を聞きつけてつぎつぎとお悔やみにやってきた。そのうちに禿げやかんの大家も現われた。
「大家さん、ゆうべおれが行ってあれほど頼んだのに玄庵の畜生、とうとう来やがらねえ。ヤットのことで起きたかと思や、ヤレ雪が降るの、寒いのとぬかしやがって。人を馬鹿にするにもほどがあらア。ねえ大家さん、そりゃおれの内は貧乏に決まってるさ。だけど、おれだって薬代を払わねえなんて言いやしめいし、おらアとうとうおやじに薬一服も飲ませねえで殺しちまった。大家さんおらア本当にくやしいよ。」
「じゃ何かい松さん。玄庵さんはどうしてもおめえの内に見舞いに来るのはいやだって言ったのかい。」
「まさかそうまでは言えねいや。だけど愚図愚図やってるうちに、また一つ外から迎えが来たアね。それが本石町の呉服問屋松坂屋さんだったからたまらねえ、玄庵の畜生、二つ返事で突走って行きやがって、後でお前のところにも回ってやるからなと口では言ったものの、とうとうそれっきりスッポかしやがってさ。大家さん、おらァくやしくてしようがねえよ。」
「なるほどなァ。松坂屋さんは名代の呉服屋だ。同じ松でも松さんの内とは比べ物にならねえ。それにフグってやつを食ってのあの世行きだ。悔しいのはよく分かるけど、ここは松さん諦めなせえ。」
 しかし松五郎は、どうしても諦められなかった。

四、ほしいのはただ金だ

 おやじの弔いを済ませた松五郎、それから間もなくしてひとりボッチの寂しい正月を迎えた。年は当年取って一九歳、身の丈は五尺三寸ばかり、鉄のような堅宍(かたじし)で、どこから見てもりっぱな若者だ。それに注文どおりの苦味ばしった顔が、おやじに死なれてからいっそう苦味ばしってきた。格好なり心持ちなりすべてが急に大人らしくなってきた。

五、どうあっても一旗上げてえ

 その後、松五郎は虫を殺したように、毎日毎日「鋳掛け屋でござアい!」「鋳掛け屋でござアい!」と触れ歩いては、一生懸命に稼いだ。
 やがて半年が経ち、夏が来た。今年はめっぽう暑い。しかし暑い夏にも涼しい夜がある。真黒になってかせいでいる松五郎も、今夜はいつになく仕事を休んで、小ざっぱりしたゆかた姿で、近所の店先で始まっている賭け将棋を見物していた。すると表の縁台から浮世話の声が耳に入ってきた。近づいてみると、
 ひきがえるのような歯の一本もない老人が、自慢そうに「おれのわけい時分はなぁ、あの松坂屋の角店のとこへ、まだ辻番(つじばん)のあったころだ。このあたりもまだ寂しかったものだよ。」
 松坂屋と聞いて松五郎の耳はピリッピリッと動いた。
「松坂屋があの大身代になったについちゃア、いろいろ面白い訳ありの話があるわサ。なにしろ今じゃアあのとおり、裏にゃア塗りごめの大土蔵が幾戸前もあってさ、いわば大名のお城みていなもんだ。大名ばかりが城を持っていると思ったら大間違げえだ。町人にも店という城があらア。」
 老人は得意の浮世哲学に余念がない。
「おやじさん、いろいろ面白い話があるっていとは、それはいったいどんな話ですかい。」と松五郎はその老人のそばにやって来てこう尋ねると、
「おや、おまえさんは鋳掛け屋の松っあんじゃねぇかい、久しぶりだなぁ。そりゃおめえ恐っそろしい話があるわナ。」


六、松坂城の富の由来

 ひきがえる老人は、まるで講釈師のごとく身振り手振りよろしく得意になって話しはじめた。

「松坂屋の今の主人というのはちょうど松っあんと同い年くらいで、手前物の賛(ぜい)を尽くした着付で、いつも色町に入りびたっているあの若旦那さ。
 この松坂屋三代目の若だんな徳次郎ってのは、もちろん店の商売などには掛かり構いがない。実際に商売を仕切っているのは(徳次郎の母親で)髪を染めた六〇近い御家のお銀さんで、(男めかけ兼)番頭の忠造を相手にして、なかなかの商売上手よ。このお銀さんの亡くなった亭主、すなわち二代目松坂屋徳之助(とくのすけ)って方は、万事女房のお銀に切回されていたという以外に特別話がない。問題はその先代の初代松坂屋徳兵衛というのが実は大層なエラ者で、これが行商のショイ呉服から身を起こして、一代のうちに松坂城を築きあげた英雄であった。
 しかし世間で言われているようにいくら英雄でも、正直正路にショイ呉服ばかりやっていたのでは、一代や二代のうちに小城の一つでも築きあげるわけにはゆかない。そこに世の中のカラクリってのがあるってもんよ。実は内々でケイズ買いをやっていたのよ。」
「おとっあん、そのケイズカイたあ何のこって?」
 松五郎はそういう言葉を知らないほどのウブだった。
「ケイズカイとはなあ、ソレ早い話が、泥棒の盗んできた品物を内証で買うことさ。泥棒は盗んだ衣類なり反物なりを(自分で捌くとすぐにお足が付くので)捌くためのハカシ道をつける相棒が入り用だ。そこで徳兵衛は泥棒の持ってくる上物を安い値段で買い取っておいて、その品を方々に持って回って高い値で売り付ける。。それならもうけもハカがゆくわけだアね。

 老人の話はいよいよ佳境に進んだ。
「噂では、何でも徳兵衛はそれからだんだん手を広げてケイズカイの大元締めまでのぼりつめたといわれている。ハカのゆくもうけを五年一〇年と続けていりゃ、しかもそれがだんだん大仕掛けになってみりゃ、ウント金もたまったろうじゃねえか。そこで徳兵衛は、足の洗い時だと考えて、初めて松坂屋という呉服屋をおっぱじめたわけよ。
 もっとも、最初の松坂屋はまだホンの小城で、それが十数年後に火事に見舞われたが、悪運の強いヤツはどこまでも運の好い奴で、逆に焼け太りよ。それでとうとう今のあのすばらしい大城ができあがったってわけよ。」
 松五郎は息を殺してこの話をじぃーと聞いていた。

七、世の中のカラクリの底の底

「ウム、それから若けぇの、もうひとつ忘れてはならない大事な話があらァ。」
 と、老人は話を続けた。
「徳兵衛の娘にお菊という器量よしがいた。徳兵衛はそれをオトリにして上州のある織り元をつかまえたってわけよ。何でもその時お菊には、近所にネンゴロにしていた若い男がいたという。が、徳兵衛の眼中には自分の娘であろうと何であろうと、すべての人間がみな自分の金もうけの道具に過ぎなかった。それでそのお菊は結局、泣き顔の上におしろいを塗って上州の織り元『田原屋』に嫁入りしたわけよ。嫁入りすりゃ人間誰しも情が移って、(やることは同じこった。)泣いても笑っても子ができるってもんよ。生まれた子は男だった。そして間もなく徳兵衛にとっては運よく、その田原屋の主人が急病で亡くなった。徳兵衛はさっそく上州に駆けつけて、若後家となった自分の娘と跡とりのまだ幼子の後見役にうまく居座ったってわけよ。何といっても実の父なり祖父なりがシャシャり出て采配を振ろうというのだから、親類一同も異を唱えようがない。それからというもの、徳兵衛は江戸と上州との間を毎月のように行ったり来たりして、田原屋の織り元商売をスッカリ自分でキリモリするようになったってわけよ。内幕を知らない世間のお人よしは、『やぁl徳兵衛さんという人は、実に感心なお方だ。子や孫のためとはいえ、よくもマァあれほど親身になってめんどうをみてやることだ。』と仏の徳兵衛とまで称して褒めたりそやしたりしたものよ。

 それにいったい、そもそもこの織り元というのは、何百人という上州一帯の女子衆を織り子として使って、そのうまい汁を吸うのが商売だ。あの辺に行ってみなせえ、どこの内でも「キーコン、バタリコン」「キ?コン、バッタリコン」と、年が年中、機を織っている。それがみんな織り元にご奉公だ。
若けいの、あそこの川にヒルというヤツが棲んでいるだろうが、人の足に吸いついて生き血を吸うと、みるみるうちにふくらんできて真丸い大きな玉になってしまうだろう。織り元もあれと同じよ。ところがさ、その生き血の固まりのヒルの玉を、また横から(パックと食らいつき)吸おうという大ヒルがあるから驚くじゃないか。それが世間でいう仏の徳兵衛よ。何でも今じゃァ田原屋というのは名ばかりで、松坂屋の出店といった格だそうだ。

 どうだ若けいの、とかく世の中はこうしたものだ。だがのう、若けいの、今の話は内緒だぞ。松坂屋は分限者だ。貧乏人が分限者の陰口をきくと罰が当たる。あっすっかり長話をしちまって、すっかり暗くなっちまった。こわやの、こわやの、くわばらくわばら、じゃあばよ。」
 
 ひきがえる老人は長物語にスッカリ溜飲(りゅういん)をさげて、いい気持ちになって帰って行った。
 あとに残された松五郎、どこまでが本当の事で、どこからがこしらえ事か分らないような話ではあったが、とにかく物知りの言うことに動かし難い道理があるように思えた。そして世の中のカラクリの底を、初めてハッキリと見せつけられた心地がしたのである。

八、千両箱が山ほど積んである

 それから数日経ったある日のこと。ちょうど松坂屋の横丁で、とがった声をいちだんとがらせて「鋳掛け屋でござァい」を触れていると、松坂屋の勝手口から呼び止められた。いやとも言えないで、女中の出したしんちゅうのなべを受け取り、道ばたにフイゴをすえて、コツコツとやり出した。しばらくすると向こうの方からチャラチャラと雪駄(せった)の音がするので、ツイ顔を上げて見ると、松坂屋三代目の若だんな徳次郎だ。意気な小袖を暖かそうに重ねて、色白の細おもてで、いかにもご大家の若旦那という格好である。松五郎はその姿を見るのがしゃくにさわって、すぐにうつむいてなべの底をヤケにたたいた。若だんなは鋳掛け屋なんどに目もくれずに松五郎の前をおうように通り過ぎていった。
 しばらくすると、今度は使いの戻りらしい小僧がそばに寄て来て、
「鋳掛け屋さん、これがフイゴというもんかい。」
 などと言うのが松五郎はウルさくてたまらなかった。しかし小僧はいっこうにお構いなく、そばにしゃがみこんできて、
「鋳掛屋さん、今、内の若だんながここを通ったろう。また女の所に行くんだぜ」
 などと親しげに話しかけてきた。
「女の所ってどこだい。」
「両国さ。何たらいう馴染みの芸者がかこってあるんだってさ。それで若だんなは湯水のようにお金を使うんだってさ。」
「ヘエ!湯水のようにね。」
「そうだってさ。だけどいくら湯水のように使ったってさ、減りっこはしねえや。三番の蔵に行ってみねえ、千両箱が山ほど積んであらァ。」
「おめえその千両箱を数えたことがあるのかい。」
「いや、本当のことを言やおらァまだ見たこともねえ。」
「ばかだなァこの小僧は。」
「だって、そりゃ本当だよ、鋳掛け屋さん。みんながそう言ってるんだもの。だけどこれは内証だよ(他の人には言っちゃあだめだよ、)鋳掛け屋さん。泥棒が入ると大変だから。」
 その時、勝手口の戸があいて先刻の女中が顔を出したので、小僧はビックリして飛んで行ってしまった。松五郎はなべを仕上げて二〇〇文の賃銭を受け取って、そしてまたフイゴをかついでスタスタとその場から立ち去っていった。
 松五郎は今二〇〇文かせいだ。そういう二〇〇文が一年あまり積もり積もって、胴巻の中には五両ばかりあった。松五郎は歩きながら胸算をやってみた。まず一年に五両とみて一〇年で五〇両、二〇年で一〇〇両、三〇年で一五〇両、四〇年で二〇〇両、五〇年で二五〇両、千両になるには一五〇年でも足りなんぇや、ばかばかしい、人間がそんなに生きていられるかい。年が年中「鋳掛け屋でござアい」と触れて歩いたって、ヤット五両の目くされ金だ。「あぁー一旗上げてなぁー、一旗あげてぇなぁー、一旗あげるのはいつのことだか、この分じゃ見当もつかなねぇや。」と独り言をつぶやきながら歩いていた。



九、覚えずブルブルと震えあがった

 松五郎はまた一つ寂しい正月を迎えた。いよいよ二〇歳の男となった。「おぉ、松っあん。もういいかげんに女房を持っちゃアどうだい」と、例のはげやかんの大家が会うたびに勧めてくれる。松五郎もまんざら女のにおいをかぎたくないことはない。それにつけても洗いざらしの、はげちょろ半天の自分の姿が浅ましく思え、このざザマァして女どころの話かい、と自分で自分を嘲らずにはいられなかった。
 そしていつしか半年が経ち、季節は汗が目ににじみこむ夏がまたやって来た。

十、身代を半分くれてやった

 松五郎はいつものように「鋳掛け屋でござぁい」「鋳掛屋でござぁい」と言いながら歩いていると柳原の辺で一二、三の小娘がシクシク泣きながらションボリ立っているのが目のとまった。
「オイねえちゃん、どうしたい」
 と、やさしく背中をたたいて聞いてみると、「おとっさんが病気で、お医者を呼びに行ったものの、薬代が滞ってるからと来てくれない。それで仕方がなく生ぐすり屋さんにくまの胆を買いに行こうとしたけど、今度はおあしを落としてしまったの」だという。松五郎はおやじの死んだ時のことを思いだして身につまされた。それでさっそくくまの胆を買って小娘に持たせたが、そのままひとりで帰すのはしのびなかったので、家まで送ってやろうと、娘を先に立てて狭い裏町にはいって行った。ナリこそ薄ぎたないが娘の後ろ姿にどこやら少し品がある。
 娘が導いた路地奥の長屋にはいってみると、暑くるしい西日の部屋に、痩せ衰えた年寄りがひとりハエにたかられて死んだように眠っていた。
「あっ娘さん、おとっさんは寝ていなさるようだ。起こしなさんな、起こしなさんな。おらァまたあすでも見に来てやるかさ」
 と言っているうち、松五郎はその娘がかわゆくなってきた。しばらくジッと考えていたが、やがてふところの胴巻から(六両あまりの金のうち)三両取りだして、それを紙に包んで娘に渡した。
「娘さん、これとっておきな、遠慮はいらねぇ。おめえさんが親孝行者で感心だからおれからのごほうびだ。おとっさんが目をさましたら、これを見せて医者を呼びに行きなせえ。」
 娘がおどおどしている間に松五郎は表に出たが、またあともどりして、
「娘さん、おめえのさんの名は何ていうんだい。何、お紺? お紺ちゃんかい。あぁいい名だ。にいさんはな、松五郎ていんだ。鋳掛け屋の松五郎ていんだ。覚えていてくんな。」
 松五郎はまた鋳掛けの荷をかついでサッサと両国の方に足を向けた。
 ああいい心持ちだ。今日ぐれえいい心持ちはねえや。おらぁ目腐れ金なんぞは欲しくねえ。いつか必ず大きく食ってみせらぁ。と松五郎はわずかな金をためるというケチな了見が無くなってみると、何だか新しい世界が開けてきたような、伸び伸びしたような気になってきた。

十一、サァこれからだぞ、これからだぞ

 その後、松五郎は両国橋のたもとで、一仕事を終えた後、橋の欄干で汗に塗れた胸を少し肌けるようにして涼んでいると、小形な屋根船がやってきて三味線の音に合わせて粋な新内の歌が聞こえてきた。しばらくして歌声が止むと
「だんな、水の上もモウ飽きましたねえ。梅川にでも行って飲み直しとしましょうか。じゃ船頭さん、済まないが梅川までやってくださいな」
 松五郎はこのなまめかしい声を聞いて、ふと橋の下を見おろすとちょうど女が船べりに顔を差しだしてこちらを見ていた。(めったにお目にかかれない色っぽい女だった。)松五郎はゾッとした。二十歳の男の血が騒いだ。差し向かいに座っている男の横顔が見えた。松五郎とあまり年頃も変わらない若旦那風であった。
 松五郎は、この若旦那が、松坂屋の若旦那徳次郎の顔とも重なり、自分の姿がいっそう惨めに感じられてきた。
「このくそ暑い中、わずかな金を稼ぐために汗まみれとなって働いている者もいれば、贅沢三昧湯水のように金を使って遊んでいる者もいる。なんてこの世の中はノノ」となぜか無性に腹立たしくなってきたのである。
 船はそんなことにとんちゃくなく、再び三味線の音色を奏でながらスルスルとそこを離れて行ってしまった。
 すると松五郎は、「畜生!」の一声とともに、(これが歌舞伎狂言ならば、「長えぃ浮世に短けぇい命『、アクセクするのは馬鹿げた話だ。こいつあ、ひとつ宗旨を変えにやならねぇ』と見栄を切り、チョンチョンチョンと拍子木が入るところでございましょうが)松五郎、何を思ったかいきなり肩のてんびん棒を背中に回して両手を掛け、棒の両端に揺れる鋳掛けの道具とともに、欄干越しに思い切りバァーと放り投げた。すると道具もてんびん棒もスゥーッと川に向かって落ちていき、波の間にドブーンと沈んでいった。あたり一面に波の輪ができたものの、それもほんの一瞬で隅田川は平気で元のとおりに流れ、往来の人々もちょうどとだえて、誰も松五郎の行いに気のつく者はいなかった。
その後、松五郎は鋳掛稼業とおさらばして、盗賊の仲間にはいり、アクドイ商売で儲けている商人や武士の家に盗みに入っては、お紺や貧しい人たちのためにもその金を使ったという。
 とはいえ法を犯しての行いゆえ、ご維新の新しい時代の夜明けを見ることなく、松五郎は刑場の露と消えるのでありました。
「戦争か
 平和か
泥棒をするか
乞食をするか
あぁ! しかし、それ以外に第三の道はないか!
乞食をするくらいなら、泥棒はしない。
泥棒をするくらいなら、乞食はしない。
あぁ! しかし、それ以外に第三の道はないか!第三の道はないか!」
 のセリフで有名な花田清輝の『泥棒論語』ではございませんが、この鋳掛屋松五郎も、もし時代が時代でしたら、また少しでもこの時代の行く末を見抜く目があったならば、泥棒という道ではなく別な第三の道を選んでいたかもしれません。
 本日は、これにて堺利彦原作「鋳掛け松」の読み終わりとさせていただきます。